11日、散髪を終えてから、個人事務所の関係で下関に向かいました。休業中でべつに売り上げがあるわけでもないのですが、いちおういまの職場が3年契約ですから、その後を考えると、こつこつ御縁は継続しておかねばなりません。いくら現給保証で食いはぐれがない状況だといっても、終身雇用でなくなった人間のつらいところです。ただ、合法的に二股をかけている状態だともいえますから、けっして悪いことばかりではありません。むかしのように棺桶に両足突っ込んだ人生に戻りたいかと言われたら、さすがにそれは……。
以前はじめてお参りした海晏寺境内の豊川稲荷にまず手をあわせます。
その裏門から、鈴ヶ森稲荷神社への千本鳥居が伸びています。
石段をあがりきると鈴ヶ森稲荷神社があり、その本殿横に狐穴があります。ここにも手を合わせます。
知人に以前教えてもらったとおり、googleマップをたよりに石段を下りていくと、むかしながらの町が残るふるい路地に出ます。
どうやらこのあたりが、新地遊郭とむかし呼ばれていた地域だそうです。
亀山八幡宮のところに「床屋発祥の地」という石碑があります。「散髪なんて誰でもやってただろうに」とおもってよく見ると、「采女之亮政之は髪結いの技術を新羅人から学び」とあり、いまでいうヘアメイクアーティストのはしりだと知って納得しました。
この話を知人にすると、「もうひとつ発祥とされているものがある」と言って笑います。聞くと、遊郭だというのです。関門海峡のせまっちいところに家が張り付いて建っている町のサイズを考えると、何故?と信じられない気もします。たしかにむかしからある港町ですから、そういうものがあっても不思議ではありません。しかし、発祥とは?もっと大都会じゃないと成立しない職業ではないかというと、wikipediaを示します。
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(略)
1185年(文治元年)、壇ノ浦の戦いで滅亡した平家の女官らが生活のために身を売ったのが下関における遊女のはじめとされ、安徳天皇の命日には正装して参拝したのが今日行われている「先帝祭」の由来とされる。
(略)
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ああ、そういうことか、というと、事務所からあのあたりらしい、と指さします。
その方向を歩いてみると、
どう考えてもむかし歓楽街だったとしか思えない朽ちた建物から一歩はいると地蔵堂がありました。このあたりも、戦前の名残っぽく感じます。ちなみにこの朽ちた建物の背後は下関医療センターという病院があり、がらりと雰囲気がかわります。
いずれこのあたりも再開発で消えてなくなるのかもしれません。ただ、こういう長屋は権利が入り組んでいて強引な地上げでもないかぎり、なかなか手が出ない場所でもあるので、朽ちてしまうまで、赤貧のような好きものの興味の対象として残り続ける可能性もありますが……。
ちなみにあとで調べてみたところ、知人が指さした新地遊郭は「新」とつくだけあって歓楽街としての成立は比較的新しかったようです。本場は唐戸市場や現在「赤間町」と呼ばれているあたりだったとのこと。
次に来たときに、そのあたりを歩いてみることにします。