松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

佐賀県佐賀市松原2丁目 佐嘉神社・松原神社


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佐嘉神社

佐嘉神社

明治6年(1873年)に祖神をお祀りする「松原神社」へ南殿を造営し、第十代藩主鍋島直正公を奉祀。大正12年(1912年)には第十一代藩主鍋島直大公が合祀されました。
昭和4年(1929年)直正公の国家的御鴻業に対し昭和天皇の格別な思召しにより「佐嘉神社」御創建を仰せ出だされ直ちに造営に着手。昭和8年(1933年)別格官幣社に列せられました。 

ながねん勘違いしていたのですが、佐嘉神社は意外と新しいのです。

佐賀藩 - Wikipedia

慶応2年(1866年)には当時の最新兵器であるアームストロング砲をほぼ自力で完成させたと称し、藩の洋式軍に配備した。アームストロング砲製造の事実については異論があるが、アームストロング砲の製造の成功に言及しているのは、からくり儀右衛門こと田中久重であるため全く根拠がない訳ではない。

回廊部分に、アームストロング砲が展示されています。

御祭神が藩主だったころ、日本のどこよりもさきに当時の最新兵器をものにした自負が、拝殿脇の回廊に堂々とこの大砲を展示させているのでしょう。

この佐嘉神社の元宮ともいえるのが、佐嘉神社の右隣にある松原神社です。 

佐嘉神社

松原神社は佐賀藩第八代藩主鍋島治茂公により藩祖鍋島直茂公を御祭神として安永元年(1772年)に「日峯社」として御創建されました(直茂公の法号「日峯宗智大居士」に因んで日峯さんとも呼ばれる)。
文化14年(1817年)直茂公の祖父清久公、直茂公の正室彦鶴姫を合祀。さらに明治5年(1872年)初代藩主鍋島勝茂公を合祀し、松原神社と改められます。明治6年(1873年)神殿北側に松原神社北殿を造営し、龍造寺隆信命、政家命、高房命の御霊を合祀しました。
同じく明治6年(1873年)に松原神社南殿を造営し、第十代藩主鍋島直正公を奉祀。大正12年(1912年)第十一代藩主鍋島直大公が合祀されました。
昭和8年(1933年)佐嘉神社御創建により現在、松原神社南殿はなくなっています。
昭和38年に鍋島家と龍造寺家を一殿二座(南座・北座)の社殿として合一整備しました。

現地案内板を読むと、吉田家から鍋島直茂公に「日峯大明神」の神号を授かり、「日峯社」として創建したとあります。

吉田神道 - Wikipedia

本来の神道は皇室が主家であり、長く白川家が実務担当の役にあったが、以後、大部分の権限を吉田家が持つこととなった。一時衰退した時期もあったが、江戸期には、徳川幕府が寛文5年(1665年)に制定した諸社禰宜神主法度で、神道本所として全国の神社・神職をその支配下に置いた。

しかし、江戸時代の制度でわかりにくいのは「人間が死んだ人を神にするかどうかを決める(神より社家がえらいんだ!)」という、お寺におカネを積んで戒名をもらうのとそう大差ない世界が存在したことです。神ってそういうもんなんですかね……。

敷山神社跡 - さがの歴史・文化お宝帳

そして、現在合祀されている龍造寺家のみなさんは、1834年(天保5年)に一度お宮を建てて外に祀られ、明治になってあらためて佐賀城近くのこの松原神社に合祀されたとのこと。 

佐賀藩 - Wikipedia

天正12年(1584年)、龍造寺隆信は島原半島において島津氏・有馬氏の連合軍との戦いである沖田畷の戦いで敗死した。その遺児である政家の補佐役として実権を握ったのが、重臣の一人であった鍋島直茂である。天正18年(1590年)には政家を廃してその子の高房を擁立、直茂はその後見人として豊臣秀吉より認められた。以後、鍋島家は主家を圧倒することとなる。文禄・慶長の役、秀吉死後の関ヶ原の戦いにおいても直茂が大将として参戦した。関ヶ原では西軍に与したが、同じ西軍の立花宗茂を攻略することで徳川家康より所領を安堵された。
慶長12年(1607年)、江戸において高房が急死した。これには、鍋島家に実権を握られて憤慨し失望した高房が、妻を殺害し自らも死のうとしたが果たせず、そのときの傷がもとでのちに亡くなった、という説がある。高房の死後わずか1か月後には、肥前に隠居していた父・政家も急死した。高房には遺児の伯庵、実弟の信清(のちの村田安良)・主膳がいたが、直茂の命で伯庵が出家するなどして龍造寺本家が事実上絶え、隆信と義兄弟の関係にあった直茂が、嫡男の勝茂に龍造寺家の家督を引き継がせる形で佐賀藩35万7千石を手にし、名実ともに大名となった。

化け猫 - Wikipedia

鍋島の化け猫騒動
肥前国佐賀藩の2代藩主・鍋島光茂の時代。光茂の碁の相手を務めていた臣下の龍造寺又七郎が、光茂の機嫌を損ねたために斬殺され、又七郎の母も飼っていたネコに悲しみの胸中を語って自害。母の血を嘗めたネコが化け猫となり、城内に入り込んで毎晩のように光茂を苦しめるが、光茂の忠臣・小森半左衛門がネコを退治し、鍋島家を救うという伝説。
史実では鍋島氏以前に龍造寺氏が肥前を治めていたが、龍造寺隆信の死後は彼の補佐だった鍋島直茂が実権を握った後、隆信の孫の高房が自殺、その父の政家も急死。以来、龍造寺氏の残党が佐賀城下の治安を乱したため、直茂は龍造寺の霊を鎮めるため、天祐寺(現・佐賀市多布施)を建造した。これが騒動の発端とされ、龍造寺の遺恨を想像上のネコの怪異で表現したものが化け猫騒動だと考えられている。

幣殿を拝見させていただきました。

隅々までモダンにつくられた松原神社を眺めながら、同じ建物の左右で、どんな感じで暮らしているのだろうか?二世帯住宅で別居?まさか?とふと思ってしまいます。

(2022.04.27訪問)