大きい地図・ルート検索 ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )
2月21日に、知人に持たせる土産を買いに行く途中、麓の花立集落にある日子神社から城山(花立山)に登りました。
城山(花立山)には、山頂が2つあり、それぞれに神社が建っています。小郡市(旧筑後国)側が日方神社で、筑前町(旧筑前国)側が愛宕神社です。
この日方神社は、彦山(英彦山)権現を江戸時代に勧請したものとされています。
日方神社がある小郡市干潟地区には阿蘇神社があります。英彦山に君臨した天之忍穂耳が熊襲の出身であることと併せて考えると、この地はどうやら熊襲の一大拠点であったようなのです。
……と、ここまで考えてみると、「干潟:ひかた」ではなく「日方」なのが気になります。
麓の日子神社には、英彦山がまだ「日子山」だった時代に勧請されたものという伝承があります。天照大神(卑弥呼)と高木大神(高皇産霊神)の入り婿である天之忍穂耳が、日の子、つまりいまふうに言えば「天子」だったわけです。
すると、日方とは「天之忍穂耳・天照大神・高木大神側を支持する立場」ということになります。
「味方」という単語があります。辞書で調べればわかりますが、元は「御方:みかた」であり「方」は「わがほう:わが方」という意味です。
日方があれば、その反対もなければなりません。味方がいれば、敵も存在することになります。
では日方の敵は?
すでに私たちは様々な場所を訪問し、おおよその答えを知っています。山幸彦こと猿田彦・五十猛命です。
天之忍穂耳が海幸彦であり、海幸山幸神話とは、権力闘争を元にした寓話であると、あれだけ書いてきて、肝心の自分がこの神社にも当てはまることに気づいていませんでした。
筑紫神社を境目に、筑前・筑後が分立していることばかりが注目されます。
この城山(花立山)もまた筑前・筑後の境界であり、日方、つまり天之忍穂耳・天照大神・高木大神を戴く部族にとっての「筑紫神社」だったのです。
注意すべきは、ここに神社が出来たのは元禄年間(1688年~1704年)であり、それまでは城だった点で、牽強付会と言われても困りますから、控えめに指摘しておきます。
過去の訪問記録
----------------------------------------
[福岡県神社誌(抄)] 下巻420頁
[社名(御祭神)]日方神社(伊弉諾、伊弉冉、天忍穂耳)
[社格]無格社
[住所]三井郡立石村大字干潟字城山
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2021.02.21訪問)