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「玄松子の記憶」というホームページがあります。数年前に更新が止まりましたが、神社訪問の基本情報を得られる場所として現在もほぼ孤高の価値を誇っています。
そのホームページに筑紫神社が掲載されたのを見て、一度訪問したきりでした。
はてなブログ(はてなダイアリー)内を検索しても筑紫神社でヒットしませんから、少なくとも10年以上むかしの話です。
福岡県神社誌では、筑紫神社の御祭神は、白日別神、五十猛命、玉依姫命、坂上田村麿とされています。社頭にある案内板では、筑紫の神、玉依姫命、坂上田村麻呂とされており、筑紫の神とは五十猛命や白日別神のことだとする説もあると、存在がぼかされています。
案内板には、玉依姫と坂上田村麻呂は後世に併せて祀られるようになったと
すでにこの「神社めぐり」シリーズをお読みのかたなら、五十猛命は山幸彦・猿田彦・彦火火出見尊の別名であることを知っています。海幸山幸神話では山幸彦が勝利しますが、最終的に天下をとったのは海幸彦(天之忍穂耳)を先祖に持つ崇神天皇であることを考えれば、生き残りのために存在を隠す必要があったはずなのです。
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(略)
これらの伝説が筑紫神社の成立に直接関わるかは明らかでないが、中でも筑紫君・肥君が祀ったという所伝が特に注目されている。当地は筑紫君の勢力圏内であるが、肥君が本拠地の九州中央部から北九州に進出したのは6世紀中頃の磐井の乱が契機で、この所伝にはその進出以後の祭祀関係の反映が指摘される。
そのほかに、筑紫神について白日別神とする説や五十猛命とする説がある。
白日別神(しらひわけのかみ)説
吉村千春による説。『古事記』の国産み神話においては、筑紫島(九州)の4面として筑紫国、豊国、肥国、熊曽国の記載があり、「筑紫国を白日別という」とあることによる。光・明・日を表す朝鮮の借字が「白」であることから、朝鮮との関係が指摘される。
五十猛命(いそたけるのみこと)説
松下見林・貝原益軒による説。『日本書紀』では神代の別伝として、スサノオが五十猛神(五十猛命)を連れて新羅に天降り、のち出雲に移ったとある。このとき、五十猛神は多くの樹種を持っていたが、韓国では植えず、筑紫から始めて国中に播いたと伝える。以上の説話から、五十猛神が渡来系の神であったことがうかがわれ、やはり朝鮮との関係が見える。
(略)
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wikipediaにあるとおり、この神社を考えるうえで重要な点は、筑紫の神を祭祀した一族が途中で入れ替わっている点です。このことは、最初に筑紫神社周辺を治めていたのは山幸彦(とその一族)であり、のちに玉垂命(=筑紫君)と健磐龍命(阿蘇津彦)に入れ替わったことを示しています。
wikipediaが磐井の乱以降の熊襲進出としているのは、筑紫君の権力低下に伴い熊襲の権力が相対的に増したことを示しているのでしょう。過去の支配者の祭祀を打ち壊すのではなく、引き継ぐのが日本古来のやり方なのだということが、よくわかります。まさに「祀りあげて」しまうわけです。
社地をぐるりと一周してみると、境内社は五所神社と稲荷神社の2社あります。
五所神社の案内板には、大正4年(1915年)に旧筑紫郡筑紫村・原田村の無格社を合祀して建立したとあります。福岡県神社誌の記載は、どうやら古い資料をもとに編纂されたもののようです。
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[福岡県神社誌(抄)]中巻43頁
[社名(御祭神)]津古神社(白日別神、五十猛命、玉依姫命、坂上田村麿)
[社格]県社
[住所]筑紫郡筑紫村大字原田字森本
[境内社(御祭神)]御祖神社(伊弉諾命、少彦名命)、須賀神社(須佐之男命)、稲荷神社(宇賀御魂命)、厳島神社(厳島姫命)、若宮神社(底筒男命、中筒男命、表筒男命、表津少童命、中津少童命、底津少童命)、葉山神社(玉依姫命)
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(2020.01.04訪問)