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過去に何度も訪問した神社ですが、神社めぐりシリーズで各所を訪問するうちに、どうも自分が見ていた姿は偏っていたのではないか、と考えるようになっていました。
22日、久しぶりに千栗八幡宮を訪問しました。肥前一之宮とされる神社です。肥前はおおむね現在の佐賀県と長崎県に相当します。それだけ広大な国なのに、なぜか一之宮は国境沿いに存在しています。以前なら、九州王朝の都である太宰府・高良山一帯に近いこの地を敢えて選定したのだろうと考えてそれで終わりにしていたでしょうが、どうもそれだけではなさそうなのです。
参道脇に宮地嶽神社があります。ここも、以前は熱心な宮地嶽信仰の象徴としてのみとらえていました。まだまだ神社めぐりは緒に就いたばかりではあるものの、この配置そのものにも、意味があることが見えてきます。
宮地嶽神社は、若き日の藤大臣阿部相丞、のちの玉垂命(筑紫君・開化天皇)を祀る神社であることは、すでにこの日記をお読みの方であれば、御理解いただけていることでしょう。
その宮地嶽神社を、参道脇の案内板の裏手に置く構図は、やはり意図があってのことだと思われるのです。赤貧もずっと気づいていませんでしたが、ほかの境内社はすべて山上にあるのに、これだけが下にあるのです。
重要な点は、参道の脇ではあっても、参道を共有していない点です。参道脇に見えているのに、入り口はことなります。玉垣をはさんで、あくまでも別の祭祀としてお祀りされているのです。これがもし、参道側から出入りできる構造になっていれば、お仲間の一人として扱っており、邪推することはなかったかもしれません。
八幡宮というと、玉依姫(比売大神)・応神天皇・神功皇后というのが御祭神の基本形です。この神社はいささか様相が異なります。玉依姫(比売大神)が存在しません。それがどうしたと言われそうですが、御祭神の関係を考えていくと、ここがとんでもない神社であることを示す鍵なのです。
赤貧の推定系図を示します。
赤字で示したのが、本殿の御祭神の皆さんです。
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明治時代までは一部史書で第15代天皇、初の女帝(女性天皇)とされたが[1]、大正15(1926)年の皇統譜令(大正15年皇室令第6号)に基づく皇統譜より正式に歴代天皇から外された[2]。 『日本書紀』では仲哀天皇崩御から応神天皇即位まで約70年間ヤマト王権に君臨したとするが、その約70年間は天皇不在ということになる。
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神功皇后は「皇后」なのに日本書紀に紀伝がある人物で、大正時代までは、初の女性天皇として扱われてきました。
赤貧は、ここが王朝交代の分岐点ではなかったかと考えています。
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応神天皇の崩御の後、最も有力と目されていた皇太子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)と互いに皇位を譲り合ったが、太子の薨去により即位したという。『日本書紀』では皇位を譲るための自殺と伝えられる。この間の3年は空位である。
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仁徳天皇の第一皇子。母は葛城襲津彦の女・磐之媛(いわのひめ)。5世紀前半に実在したと見られる。仁徳天皇87年1月、仁徳天皇崩御。住吉仲皇子が皇位を奪おうとして叛するが、弟の瑞歯別皇子(後の反正天皇)に命じてこれを誅殺させ、翌年2月に即位して葛城黒媛を立后。
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仁徳天皇とそのあとの履中天皇の時代、即位するまで一波乱あったことを日本書紀は記しています。兄弟間の骨肉の争い・権力闘争とみるのが一般的かもしれません。赤貧はそれを一歩進めて、違う背景(系譜)を持つ異父兄弟のガチンコ闘争だとみています。以前から何度も書いている通り、政略結婚・政略離婚だらけの乱婚社会の成れの果てなのですが、のちにこれを万世一系となるよう改変し、創作し、嘘で塗り固めて帳尻をあわせたのが古事記・日本書紀なのです。
続日本紀の編纂過程については、過去に少し書かせていただきました。
当時はとんでもない連中だと怒りもしたのですが、政権を取った側が自らを正当化するのは当然だし、勝者が歴史を残す以上、仕方がないことなのです。
柔道家古賀稔彦が身体を鍛えた石段を登るのをあきらめ、裏側の車道から境内に入ります。
社殿の御祭神のうち、注意が必要なのはまず、住吉大神でしょうか。
高良玉垂宮神秘書では初代住吉大明神は鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず)とされ、それを受け継いだのが住吉三神 安曇磯良、崇神天皇、玉垂命とされています。この3人のなかで神功皇后と関係があったと目しているのは、崇神天皇と玉垂命の2人で、玉垂命は後述のとおり武内宿禰として祀られていますから、残るは崇神天皇となります。
武内宿禰と玉垂命を、記紀はわざと同一視しています。毎度のことなので何度もこの日記でも書いてきましたが、よほど前王朝の天皇について、消し去りたかったのでしょう。どうしても書かないと物語の帳尻が合わない部分だけ、異母弟である武内宿禰に「仮託」しています。
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欠史八代(けっしはちだい、かつては闕史八代または缺史八代とも書いた)とは、『古事記』・『日本書紀』において系譜(帝紀)は存在するがその事績(旧辞)が記されない第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のこと、あるいはその時代を指す。
現代の歴史学ではこれらの天皇達は実在せず後世になって創作された存在と考える見解が有力であるが、実在説も根強い。
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開化天皇として皇室の系譜に記載しているものの、その業績は他人の手柄に分散させ、ごまかしてしまっています。建国の功労者とされた武内宿禰は、実質的には玉垂命=開化天皇=筑紫君なのです。少なくともこの千栗八幡宮では、玉垂命の置き換えとして武内宿禰が祀られています。
そして最後は宇治皇子と難波皇子の存在で、この両者のあいだで3年間皇位が定まらなかった原因は、結局のところヤマト正統派と崇神王朝派の闘争だったと思えます。
こうして見ると、この千栗八幡宮は、すでに崇神王朝で支配が固まったあとの「八幡宮」でも「宝満宮」でもないことがわかります。もっと古い形式の、王朝交代期の姿を留めているのです。
真の古社のひとつと言えるでしょう。
となると、この武雄神社がなぜここに在るのかも見えてきます。これは武雄市に在る武雄神社の分社ではなく、玉垂命を武内宿禰として封じ込めるための「まじない(呪い)」なのです。
その呪いは、真正面の高良大社(高良玉垂宮)に向けられています。
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『日本書紀』応神天皇9年4月条によると、兄の武内宿禰が筑紫国に派遣された際、甘美内宿禰は兄を除こうとして天皇に讒言した。武内宿禰の天皇への弁明を受け、武内宿禰と甘美内宿禰は探湯で戦ったが、甘美内宿禰は敗れて兄に殺されそうになった。そこを天皇の勅によって許されたが、紀直らの祖に隷属民として授けられたという[1]。
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武内宿禰の弟とされる甘美内宿禰について調べていくと、これもまた記載に違和感があります。この両者が本当に兄弟なのか、疑ってみる必要がありそうです。前述の推定系譜では、いまの赤貧の考えているものを黒線で記し、日本書紀の記載を緑線で記しました。とにかく徹底して、玉垂命を武内宿禰とし「臣下」として扱おうとする姿勢の具現化なのです。
赤貧が記紀をまともに読むべきではなく、どうやら武内宿禰の正体を掘り下げることが真の建国史を探る鍵となることに気づいたのは、この本の存在でした。今ではすっかりこの本の解釈からはかけ離れてしまった部分も多いのですが……。
最後にもう一点だけ触れておくと、この神社の配置も絶妙に考えられています。
社殿の向きが厳密な南ではないというのも個人的には驚いたのですが、この位置は、それこそ玉垂命が支配した土地に向かっているのです。大善寺玉垂宮から高良山まで、ほぼすべてに向かっています。
案内板に「宇佐神宮の五所別宮の一」とあったのを思い出すべきでしょう。ここは玉垂命を封じ込めるためのお宮であり、いわば目付役としての性格を与えられた存在だったのです。
(2020.02.22訪問)