飯塚市(旧筑穂町かつ旧内野村)内野にある老松宮です。
たまに大物に出くわしますが、これだけの大物に出会えると、興奮します。
非常に失礼な書き方だとあらかじめお断りしますが、ここは「怪獣級」の歴史遺産です。
御祭神は菅公であり、1248年に大宰府天満宮領となって勧請されたと福岡県神社誌に記載されています。ただ、それはあくまでも老松宮としての創建であって、雰囲気はどこからみても菅公を祀る神社なぞではありません。
下関市長府の忌宮神社や久留米市御井町の高良下宮と同様、石段の下にある広い庭は、命令するために民や役人を集めるための場所です。このつくりは、民に命をくだす王を祀る場所であったことを示しています。
そして三階松の御神紋は、宮地嶽神社と同一です。
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(略)
「本社縁起日宮地嶽大明神阿部相丞、勝村大明神藤高麿、勝頼大明神助麿、云々。伝説に往昔神功皇后新羅を征し給ふ時、宮地嶽の山上にて宗像三柱大神を招神鎮祭あらせられ祈請し給いて遂に新羅に勝ち還御ありしによって宗像三柱大神を奉斎し給ひ、後に神功皇后を御同座に祀ることとなれりと云ふ。又勝村大神勝頼大神は三韓征伐に随行せられて常に先頭を承はり勝閧を挙げられたり、帰還後此の地の祖神と祀らる。」
(略)
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宮地嶽神社の公式ブログが「いち個人の見解」と前置きして福岡県神社誌の一部を紹介しています。「御祭神隠しをやってきたよ(てへ)」と回りくどく白状しているのです。この老松宮の社殿の屋根の千木が男千木なのも納得がいきます。
神功皇后を中心とした筑紫君(水沼君=玉垂命)と熊襲(阿蘇氏)の連合が三韓征伐の主力部隊であったと、これまでにも仮説で何度も書いてきたことですが、菅公を祀っているはずの老松宮で三階松の御神紋を見つけたことで、この説は多少なりとも補強できた気がします。
記紀に従えば神功皇后軍ですが、実際のリーダーは筑紫君だったのでしょう。
そして筑紫君である玉垂命は、阿部相丞でもあったわけです。仲哀天皇→神功皇后→応神天皇と皇統がつながっていると偽装するために、玉垂命は隠されました。
社殿の脇に、稲荷神社、大神宮、松尾神社があります。稲荷神社はウカノミタマ(=豊受大神=稲魂神)を祀り、いわば神宮の外宮に相当します。大神宮はオオヒルメノムチ(卑弥呼=天照大神)を祀ります。
松尾神社の御祭神は福岡県神社誌では天照大神の侍女であるオオミヤノメとされています。このオオミヤノメはただの侍女ではありません。岩戸隠れの引っ張りだしにセクシーダンスで貢献した(ことになっている)アメノウズメの別名です。アメノウズメものちの豊受大神のこと。つまり、お稲荷さんと二重にお祀りされています。
いちおう帳面消しに、菅公も祀られています。そしてその祠のよこには、蘇孝慈墓誌を思わせる立派な楷書で書かれた石碑があります。
王が天照大神を従えて鎮座する構図は、寺内の美奈宜神社などでもみられるものです。
ただ、この神社のすごさはこれだけではありません。
愕然としました。おそらくこれがもとの古宮です。寺内の美奈宜神社が、戦勝地に神功皇后軍が建てた記念建造物であったのと同様、この内野の老松宮も神功皇后軍が占領地に建てた記念建造物なのです。
やがて時代が下り、太宰府天満宮領となって菅公で上書きしなければならなくなったときに、住民の抵抗があったのでしょう。さまざまなヒントが残されました。あまりの露骨さに、クラクラしそうです……。
帰ろうとすると、ちょうど原田線の列車がやってきました。
むかしはこれに乗って仕事場に通うことも年に数回あったのですよね……。遠い幻のようです。
(2019.06.08訪問)