美風庵だより

幻の花 散りぬ一輪 冬日の中

糟屋郡久山町猪野 天照皇大神宮


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天照皇大神宮 - 美風庵だより

天照皇大神宮再訪 - 美風庵だより

1月25日、久山町の伊野皇大神宮を再訪しました。2019年2月以来です。

長くなりますが、重要なため、福岡県神社誌の由緒を引用します。
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祭神志賀三神、罔象女神住吉三神は字権現に村社水取神社として祭祀ありしを、明治四十三年八月二十五日許可を得天照皇大神宮に合祀す。由緒不詳、明治九年三月再興、此社者神功皇后異国退治之時祈願之社と古老云伝ふ、住吉は供日田と云ふ地にあり洪水の患有るを以て宮苑と云地に移転す、其後元和三巳年二月本社地に移す。明治十五年三月四日村社に被定。天照皇大神天手力雄神、萬幡千々姫神は社号を天照皇大神宮と称し、元来当神社の祭神なりしも明治四十三年八月二十五日許可を得水取神社を移して同殿とし同時に村社天照皇大神宮と公称す。
由緒不詳往古豊丹生氏の人都に居住す。世々大神の祭を司れり、足利将軍の末代に当りて豊丹生佐渡守有り。罪有て豊前国彦山の麓に流されけり、時に大神佐渡守に告て曰く汝我をたづさへて配所にをもむくべしと、依て密に神体を捧奉り彦山の麓に居住す。其千兵庫太夫に大神告て、「汝我をつれて筑前国粕屋郡猪野と云所に移るべし」と宣ふ、兵庫太夫教の如く猪野村に行き宮を建て仕へ奉る。其後天和三年(延宝誤)黒田権少将継高今の社地に社殿を築き遷す、以後旧藩にてニ十一年目毎に社殿造替を奉仕す。
同大字字南に無格社古宮大神宮として祭祀ありしを明治四十五年三月十四日合併許可、祭神同一に付合併と共に合霊せり。由緒此所は豊丹生兵庫太夫豊前国より来りて大神宮を斎祭りし地なり、天和三年旧藩主黒田継高別所之地に大神宮遷移以後二十一年目神社造替の節此地は旅所なり。大正十二年五月四日県社に昇格。又社説に曰く、当社の創立は果して何時の頃なりしか杳として今知るに由なきも、往昔大神宮鎮座(三代実録天慶元年授筑前国正六位上天照神従五位下)の宮所に足利の末世豊丹生佐渡守が神託を奉じて都より斎き祀れる事実は疑ふの余地なし。
藩主黒田光之公神主豊丹生信重をして工匠都料工藤太夫清重を率ひ伊勢神宮に遣はされ神宮格式に依る造営の奥秘を習得せしめ、本殿を始め瑞垣玉串門鳥居に至るまで、造営調度等悉く伊勢神宮に模へ築造せらる、爾来寛文元年に至る迄、二十五年毎に更営せらるる例なりしを、延宝五年より二十年制に改められ現在に及べり、神域は古来神路山と称し、社前の清流は五十鈴川と唱へ前橋、五十鈴橋架設され、境内には老松老檜鬱蒼として繁茂し幽邃森厳神威の光被する所蓋し尋常ならず、神路山の山頂には、国見ヶ嶽の霊峰あり神功皇后三韓征伐の際、上山田斎宮より大神宮に武運長久の祈願せられ、国見ヶ嶽に登山し給ひ、航路を定め給ひし所なりとの伝説あり。
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数奇な運命をたどった神社であることがお判りいただけたかと思います。

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現地の案内板も参考にしつつ、略すと、こんな感じでしょうか。

(1)足仲彦の戦死後、斎宮として仕えていた神功皇后が、あらためて三韓征伐を発起し必勝祈願をした場所である。

(2)史書日本三代実録」には、天慶元年(938年 現地案内板では元慶元年=887年)に神階授与の記載があり、この時点ですでに神社として存在していた。

(3)天照大神の祭祀を豊丹生(ぶにゅう)氏が足利幕府時代に受け継ぐ。

(4)黒田家が劇的大改造を実施して、現在の姿となる。

つまり「元香椎」とでも言うべき存在から、天照大神を祀る神社へと変貌を遂げ、さらに黒田家によって「九州の伊勢」となるべく大改造をうけたことが見てとれるのです。

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もともとの社地は古宮跡として残されています。そこまで広い敷地ではありませんし、お宮としての規模も、それなりのものであったことが推察できます。

北九州市八幡西区藤田1丁目 春日神社 - 美風庵だより

その皇大神宮に大幅に手を加えたのが、黒田家でした。すでにこの日記の読者のかたは、黒田家が国祖を名乗ったうえに、本当の皇祖神と扁額を並べた神社があるのを知っています。大規模な伊勢の模倣もまた、黒田家の権威付けに必要だったのでしょう。

以前取り上げたときは、内宮だけで外宮がないなどと書いてしまいました。

そのようなことはありません。しっかりと内宮・外宮の関係が築かれています。

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五穀神とは、外宮の豊受大神こと天細女(あめのうずめ)にほかなりません。皇大神宮(内宮)の近くに、きちんと存在していたのです。1年前はまだ神社めぐりを本格的にはじめてすぐのころで、この関係性をきちんと理解できていませんでした。ほんとうに申し訳なく思います。

注目すべきは、五穀神の隣の水取宮跡に罔象女神(みずはのめ)が祀られていたことです。

天手力雄命とは、スサノオの別名です。罔象女神スサノオの間にできた子が、天細女(あめのうずめ)ですから、水取宮と五穀神が並んで祀られているのは、そのあたりの事情を理解したうえで祭祀が行われていたのだと、判るのです。

萬幡千々姫神天照大神と高木大神(高皇産霊神)の子で、天之忍穂耳を婿とします。

英彦山勢力を源流とする現皇室につながる血脈が、判りやすくこの神社には残されているのです。政治的な思惑でつくられた神宮(内宮・外宮)よりも、はるかに古式の神宮が、久山の山奥に存在していると言い切ってよいでしょう。

住吉三神・志賀三神は、神宮で上書きされる前の、がんらいの祭祀の名残です。

おそらくは、神功皇后・玉垂命・安曇磯良を祀っていたのが、神功皇后が消されて天照大神に取り替えられ、さらに神宮(内宮・外宮)としての体裁を整えられたと考えます。考えてみれば英彦山も近く、古式が伝えられていたのでしょう。

しかし、規模はともかくここまで本式の神宮をなぜ黒田家が整備する必要があったのでしょうか。やはりそこには天下取りの野望があったのではないか、という気がするのです。

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参道沿いを悠々と泳ぐ鯉を眺めていると、権力者の思惑が錯綜した地であること忘れそうになります……。

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[福岡県神社誌(抄)]上巻96頁
[社名(御祭神)]天照皇大神宮(天照皇大神天手力雄命、萬幡千々姫神住吉三神、志賀三神、罔象女神
[社格]県社
[住所]糟屋郡山田村大字猪野字別所
[境内社(御祭神)]住吉神社、七所神社、貴船神社恵比須神社祇園社
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(2020.01.25訪問)