この日記でも何度も登場し、たまに忘れますが基本的に月参りしている大己貴神社です。地元では「おんがさま」と呼ばれています。赤貧は自分の生まれが筑豊ということもあってか、「遠賀さま」に聞こえてしかたがありませんでした。
先日書いたとおり、事代主(幼名 スクナヒコナ=須久那美迦微=那国の須玖の皇子)が甘木に3年住んだ伝承を知り、現在の春日市須玖あたりの生まれと気づいてしまえば、大国主(大己貴)が「おんが(遠賀)さま」でもまったくおかしくありません。
この神社には、「神功皇后の新羅征伐に際して、兵が集まらなかったため、大三輪社を建てた所、集まった」「大三輪神の祟りによって、兵が逃げ、死亡していたが、これを祀ったことにより、無事、新羅平定がかなった」という言い伝えがあります。
要は、神功皇后というネームバリューでは募兵がままならない地域だったということです。なぜか。もともとの支配地ではなかったからでしょう。敵地であったか、支配してまもない土地だったかということです。そして土地の旧主に祈り、民心の安定をはかりました。そこでやっと、兵卒になってくれる者もでてきたのです。
御神体山を遥拝してからふと本殿の屋根をみると三つ巴紋が右回りなのに気づきました。いま八幡宮を名乗る神社はたいてい左三つ巴紋です。要はそれよりも由緒が古い証です。
福岡県神社誌を読むと、境内摂社が、八幡神社、須賀神社、天満神社、八幡宮、天満宮、八幡宮、天満宮とあります。おそらく誤記だろうと思うし、そんなにあの境内に祠があったかとも思いますが、今度、じっくり探してみることにしましょう。
(2019.06.04訪問)