松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

福岡市東区奈多 志式神社


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JR奈多駅や路線バスのバス停があるほうから、奈多漁港側にむけてなだらかな坂になっており、ちょうどその頂点にある神社です。裏手の海岸に向かうほうが傾斜は急になっています。

神功皇后三韓進軍の折此の奈多浜に鎮座される荒ぶる神の御前にて戦捷の神楽を奏して征途につかれた、此の所を神楽岸又は踊坂と伝え当時神功の料理に奉仕した祖先の意志が受けつがれ今日の早魚神事として伝承される。
古は三郎天神と称え、後に志々岐三郎天神と称えたのは志々岐の三郎が勧請合祀した故であろう。明治の代に至り志式神社と改称される祭神は火明神、火酢芹神、豊玉姫神、十域別神、稚武王、葉山姫神で火難、盗難、難産を免れ家運を開く神として広く世に知られる。
正徳五年正月、寫所の「奈多浦志々岐大明神之事」に、聖武天皇の御宇観世音寺建立に当り御本尊を中華の國より運ぶ折、此の奈多沖にて急に大時化に会い肥前の國五島の志々岐大明神を船中に勧請し祈願した所無事帰国することが出来た。その後奈多の吹上浜に斯の社を建てその横に四尺三寸五分三尺六寸厚さ二寸二分の金の台座の上に赤銅の阿弥陀仏像を祭ったが、天正十二年岩屋陣の戦の時島津兵が此の像を盗み帰り后に刀の鍔に改鋳した。之が今日伝わる筑前の阿弥陀鍔の由来である。
此の由緒ある神社を永久に世に伝え限りなき神徳を氏子崇敬者と共に讃えむ。(志式神社記より)

案内板によれば、むかしは三郎天神と言っていたとのこと。ただ、境内に残る扁額は三「良」天神で、これだと3人の立派な神様、という意味になってしまいます。

境内に立派な建物があります。志式座という舞台だそうです。

奈多の志式座

この常設舞台「志式座」は、明治28年(1895)に粕屋郡久山町の猪野神社境内から移築されたもので、毎年4月1日の初老賀祭(厄落とし)と7月19日・20日の奈多祇園祭で使用されています。
建物は間口約18m、奥行約8m、このうち舞台は間口約12m、奥行約5mをはかります。移築後、両側面の楽屋を拡大し、左手の花道などを新たに設けています。また茅の屋根を瓦に葺き替えています。舞台前には盛土をして見所(観客席)が作られています。
天明4年(1784)、疫病と飢饉退散の祈願成就のお礼に志式神社に「おどり」(芝居)が奉納され、以後「万年願」と称して、この舞台が移築されるまでは仮説舞台を組み立て、一年も欠くことなく「おどり」の奉納が続けられてきたと伝えられています。
このような農村舞台はかつて西区や東区にもありましたが、現在市内ではこの「志式座」が残るだけとなっています。

2006年3月 福岡市教育委員会 

糟屋郡久山町猪野 天照皇大神宮 - 美風庵だより

以前、久山町猪野の天照皇大神宮(猪野神社)を訪問しました。どこにこんな建物が入るのか?ともおもいましたが、もしかすると鳥居から社殿側以外にも、むかしは社地がひろがっていたのかもしれません。

松林を抜けて海岸に出る道の途中にも、複数の祠やお宮があります。

お稲荷さんばかりかとおもいきや、石の上にえびす様が置かれていたりします。

二の鳥居から、境内に入ります。

お潮井
奈多では奈多浜のお潮井(真砂)をテボ(籠)に入れ家の玄関口に備え外出の時身にふりかけて災厄からのがれる事を祈り家屋の新築の際には敷地を清め田畑に撒いては豊作、虫よけを祈ります。この起源は非常に古く神代に神々が行なわれた禊祓いに基くものです。又毎月一日十五日は、お潮井汲みが今日も続けられております。
昭和五十九年厄除記念 四十一才同年中 

脇に、お汐井台があります。

さらにすすむと楼門があります。よく配置がかんがえられており、小さいながらも印象深い構図です。

社殿の背後にまわりこむと、本殿は腰まで覆屋がかけられていました。

社殿正面向かって右側に、画像左から蛭子宮、えびす様の石像、竜宮がありました。えびす様の石像は、彩色の真っ最中で、作業中のかたが写ってしまうため、わざと隠れるように写しています。

社殿正面向かって左手にも境内社があり、画像左手はお稲荷さん、いちばん奥が須賀神社なのはわかりましたが、真ん中のお宮はわかりませんでした。

朝倉郡筑前町曽根田 天満宮(三郎天神) - 美風庵だより

筑紫野市常松 三郎天神社 - 美風庵だより

ひとつ謎なのは、三郎天神とは埴安命こと大幡主(=博多のお櫛田さん=国常立命=神皇産霊神=塩土老翁)で、その別名が志々岐三郎ならこちらが主役として扱われそうなのですが、こちらが後世の混濁と扱われていることです。

そのかわり、火明神(ほあかり。=猿田彦=山幸彦)、豊玉姫が祀られています。

火酢芹(ほすせり)は天之忍穂耳のことではないかという意見があり、また、玉垂宮神秘書でいうソソリノ命だという意見もみられ、いったん保留とします。

十城別(とおきわけ)、稚武王(わかたけおう)は、足仲彦(仲哀天皇)の弟君たち。

葉山媛:玄松子の祭神記

山背根子の娘で、摂津国広田神社の創祀者。

あまり推測するとまた批判コメントが来そうですが、山幸彦の側を祀る神社が原型で、その地域をのちに治めた皆さんが、あとから御祭神に加わってきたという理解でよさそうです。

福岡県神社誌:上巻114頁
[社名(御祭神)]志式神社(火明神、火酢芹神、豊玉姫神、十城別神、稚武王、葉山姫神)
[社格]村社
[住所]糟屋郡和白村大字奈多字宮山
[由緒]十一月十九日祭典の事実によれば斯社創立千年前の如し、然れども年月を徴すべきものなし、旧暦正月上旬参詣多し、火難盗難難産を免ると云ふ天保年間徳川家慶の臣内田伊勢守よりの伝命なりとて筑州藩松平美濃守より盗難除祈祷の事を斯社頭に行はれし事あり。元禄十六年大野貞勝より御供米を寄附す、貞勝は此の方面に田を開墾せし人なり。大祭日六月十九日、二十日と十一月十九日、二十日両度なり、十一月は神楽の古実献魚包丁式等あり。千年来の典故なりと云伝ふ。明治五年十一月三日村社に被定。
[境内社(御祭神)]恵比須神社(事代主神、十城別神)、愛宕神社(迦具土神)、海積神社(綿津見神)、須賀神社(須佐之男神)、稲荷神社(稲倉魂神)
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。
(2022.06.18訪問)