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主祭神
本座・仁徳天皇
左座・応神天皇、仲哀天皇、神功皇后
右座・履中天皇、葦姫皇后貞観8年(866年)、清和天皇の勅命により難波高津宮の遺跡が探索され、その地に社殿を築いて仁徳天皇を祀ったのに始まる。天正11年(1583年)、豊臣秀吉が大坂城を築城する際、比売古曽神社の境内(現在地)に遷座し、比売古曽神社を当社の地主神として摂社とした。
門扉の御神紋は、五七桐紋です。
この「神社めぐり」の基本文献である玉垂宮神秘書では、桐紋は、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず)から神器といっしょに高良玉垂命に継受されたものとされています。
高良玉垂命は五七桐紋をもちい、妃である神功皇后は五三桐紋をもちいました。
このお宮さんは大阪城築城にあたり現在地に移転してきたとあるため、秀吉由来の桐紋かともかんがえましたが、いずれにしても遠い大阪の地で、仁徳天皇(高良玉垂命の子 大鷦鷯尊)を祀る神社が桐紋とは、感慨深いものがあります。
この地にもともと鎮座していた比売古曽神社は、社殿正面向かって左側、神輿庫の横にありました。
比売語曽社(ひめこそしゃ)は、大分県の姫島(東国東郡姫島村)にある神社である。
祭神の比売語曽神について、『日本書紀』では、垂仁天皇の時代に、意富加羅国(おほからのくに。現在の朝鮮半島南部にあったと考えられている。)の王子の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が、白石から生まれた童女(阿加流比売神)に求婚すると、美女は消え失せ、都怒我阿羅斯等が追いかけると日本に渡り、摂津及び姫島に至って比売語曽社の神となったと伝えている。
大分県の姫島にある比売語曽社では、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)から追いかけられたアカルヒメが摂津、そして九州まで逃げたということになっています。
ただ、すでに北部九州の神社を訪問してきた目でみれば、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)は朝鮮の王族ではなく崇神天皇の別名であり、追いかけ回したのもアカルヒメではなく、その娘の市杵島姫だろうと推測できます。
ここで重要なのは、この記憶をもつ一族が、はるばる大阪まで移住してきたということ。崇神天皇に連れられて仁徳天皇(大鷦鷯尊)も大阪入りし、高台から眺めてあまりの状況に3年間の租税を見送り、新天地の開発につとめたというのが真相でしょう。
となれば、彼らの奈良入りは、さらに後ということになります。
境内には高倉稲荷神社があります。小倉の八坂神社や足立山妙見宮にも高倉稲荷がありますし、ほかでもよく聞く社号です。
高倉稲荷の隣には、安井稲荷神社もあります。お稲荷さん多いですね……。
1945年3月の空襲で神輿庫以外ぜんぶ焼失したとのことで、社殿は1961年改築の鉄筋コンクリート造です。
神輿庫
宝暦年間(1751~1764年)より戦火をまぬがれて今に至る。
入り口の向拝の天井には瓦製の龍が眼光鋭くとぐろを巻いている。
現地案内板によれば、この龍神様はとても御利益があるとのことなので、宝くじ一等当選をお願いしました。
どうやら自分がはいってきたのは裏門らしく、帰りは参道から出ます。
令和3年10月17日(日) 高津宮とこしえ秋祭り - 高津宮イベントスケジュール
高津神社(4)高津宮とこしえ秋祭 葦舟造り 境内で井戸掘り奉仕 運動不足に効果絶大 求ム!井戸掘りびと(大阪市中央区) - ものづくりとことだまの国
石段に舟の骨組みがありよくわからぬまま通りすぎたのですが、秋祭りのシンボルとして葦舟の奉納があるようです。
立派な鳥居です。
(2022.10.14訪問)
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。