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「地蔵尊」の扁額が掲げられた鳥居があります。
途中にある鳥居の扁額には、参拝する心構えが記されています。
意訳すると「享保の飢饉でなくなった村人の慰霊のため、我々は心こまやかな気遣いをわすれないようにしましょう」「こう ねがいもうしあげ」つまり「お参りしたら線香おそなえしてね!」とのこと。どうも説教じみた感じがしてしまいます。
ただ、隣地との境目にある金網に不法投棄禁止といった看板もあり、信仰心のない者によるいたづらが多く、ここは聖地なのだと力説せざるを得ないのかもしれません。
地蔵堂には味噌喰地蔵さまのほか、複数の御神体?がお祀りされています。
お堂の外にも御神体?があります。
お地蔵さんのあたまは、ながねん味噌を塗りつけられて変色しており、触ると違和感を感じます。味噌や握り飯を塗りつけられ石が損壊した部分にセメントが塗ってあるのですが、これもまたざらりとした感触で、おそらく補修後も味噌を塗る風習が絶えなかったとみえます。
味噌喰い地蔵尊の由来
この地蔵尊の由来は、江戸時代の享保十七年(一七三二)から翌十八年にかけて起こった悲惨な享保の大飢饉の際に、この周辺で餓死した人たちの霊を慰めるため、その七十五回忌に当たる文化五年(一八〇八)戊辰八月に大長寺第十三代住職暁空上人が施餓鬼供養を行ない、無縁塔を立てその上にこの地蔵尊を据えたものである。
この場所は古小烏と浦谷(現在中央区桜坂一丁目)との境の小丘に在り城下町に入るには、ここから下警固村の平地に下り赤坂門を経て福岡藩が仮設した荒戸、魚町浜の飢人救い小屋の粥場に至る最短距離のルートであった。今は食物もなくえた飢人達はこの山道の岳の上までやっと辿り着き、ここで力尽き行倒れた人も多かったようだ。
里人はこれを哀れみ毎年八月二十四日この場所で施餓鬼供養を行ないその霊を慰めていたが、餓死した人たちが「ああ飯が喰いたい、何でもよいから食べるものが欲しい」と思い続けて息が絶えたであろうとその心情を思い供養のため握り飯や生味噌を供え篤く葬って来たと言い伝えられている。
その後、この地蔵尊に願をかけて大願成就の際に地蔵尊の口元に味噌を塗りつけた人があったことからその風習が生まれ、いつの間にやら「味噌喰い地蔵尊」と呼ばれるようになった。
元来、地蔵尊は仏教でいう六道の衆生を救い、特に童児守護の菩薩として日本人に篤く信仰されているが、飢人地蔵尊として建立されてから約百八十年を経た今も小児の願い事に霊験あらたかなことを聞き伝えた近郊里人の信仰を集め幼児を伴った親達の参詣を多く見受けられるようになっている。
平成二年八月二十四日
味噌喰い地蔵尊世話人会
(2022.08.27訪問)
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。