親戚の山によもぎを採取しに行ったのが3日でした。プランターをみると、植え付け当初はしおれていた葉がピンと立っています。もう根が活着したようです。そうであれば上部を残す必要はありませんから、剪定ばさみで刈り取ってしまいます。よもぎは根っこ(地下茎)が生きていれば、どんどん増える雑草です。
入浴剤にするため、よもぎを洗って、鍋で煮ます。葉っぱや茎を取り去って、煮汁だけを風呂に加えると「よもぎ湯」になります。風呂に使う場合、生よりも日干しして乾燥させたもののほうが、エキスが良く出るという話もむかし聞きましたが、さだかではありません。
浴湯料として風呂に入れると、肌荒れを防ぎ、痛みを和らげ、保温に役立つ効果があるので、あせも、肩こり、腰痛、神経痛、リウマチ、冷え症に良いとされる。
うきは市浮羽町山北地区の神社めぐりをしている途中、たまたま発見したお茶屋さんの新茶を予約していたのですが本日到着しました。さっそく「上煎茶」のほうを呑んでみました。
実生の在来種というと、まだ小さかったころに自宅にも種から育てた茶ノ木がありました。いまは市道拡幅でその土地ごと削られてなくなりました。
祖母といっしょに手もみしてつくったお茶は、味は濃いが匂い(香り)が薄いという印象があって半信半疑で呑んでみたところ、(特上ではなく)「上煎茶」でも充分に香りが立ち驚きました。味の濃さはあいかわらずで、さすがプロが育て、製造したものだと感心してしまいます。「特上」だとおそらくもっと味が出るはずなので、注意して少なめに茶葉を使う必要がありそうです。
雨がやみ、4日に訪問した神社の感想も書き終えたことから、14時過ぎに家を出て、首渕に向かうことにしました。
と言っても、4日に訪問した嘉麻市桑野の「首渕の滝」ではありません。江戸時代同じ秋月藩領だった朝倉市日向石にも小字「首渕(つぶろぶち)」があるのです。
戦国時代、この辺りを治めていた秋月氏は当時北部九州まで勢力を拡げていた豊後の大友氏と何度も戦をしていました。特に永禄十年(1567年)8月の秋月合戦と言われる戦いは一度は没落した秋月氏にとって、再興成るか或いは滅亡するかの大事な戦いで、強敵大友氏との最大の決戦でした。安見ヶ城(休松山城)は秋月家方の名将坂田越後守の受持ち城でしたが、この合戦のはじめに大挙して押し寄せてきた大友軍に攻められ、遂に護りきれずに退却し、城は奪い取られてしまいました。秋月へ向かう途中で越後守は自刃し、従臣が介錯した首がすぐそばの渕に落ち込んだそうです。その渕を首渕と言い、現在も地名【首渕】(つぶろぶち)として残っています。
これを考えると、古処山・馬見山を挟んで反対にそれぞれ「首渕」があるということ自体が、大友勢 ・秋月勢お互いの意趣返しだったのかも?とも思えてくるのです。
徒歩・自転車あわせて約20kmほどの行程でした。
才田組の事務所があるあたりで、標高が50mほどです。ここから延々と続く坂道を、採石場に沿って登っていきます。途中、お地蔵さんがずらりと並んでいる場所があり、赤い前掛けを眺めつつ横で最初の休憩をとります。
運動がてら大平山に向かうほうは何度も歩きましたが、今回、はじめて左折します。
採石場は山を削っているものだとばかり思っていましたが、どうやら山体だけではなく、さらに地面を露天掘りして採取しているようです。初めて知りました。20kgあるママチャリを押しながら登るため、すぐ息が切れます。2度目の休憩をとり、GPSアプリをみると標高158mと表示されました。事前の調査ではてっぺんの標高が約200mあるらしいので、まだまだこの坂道がつづきます。やっちまったか?と後悔しつつ、とにかくここに自転車を捨てたらどうやって取りに来るんだ?と自分に言い聞かせつつ、登ります。
舗装が途切れ砂利道になりました。汗がしたたりメガネに落ちてよく前が見えません。しかも、午前中の雨で泥が柔らかく、自転車の車輪がめりこみます。
しばらく辛抱して押していると、どうも前が上り坂ではなくなりました。
GPSアプリを確認すると、ちょうど191mで、ここがてっぺんのようです。ここから先は下りだと思うと、それだけで気分が晴れ晴れとしてきます。
最初は下り坂も自転車を押していたのですが、林業で使われているのか、かなり固く踏みしめられており、自転車で下ることにしました。
見下ろすと下に道が見えてきたので首渕は近いのでしょうが、かなりの高低差があります。どうやって下りるのだろう?そう思いはじめたころから、林業で使わないのか、急に路肩が崩れ放題。道も全体が斜めで、自転車で走ると路肩のほうに引きずられていきます。
路肩に引っ張られてそのまま落っこちそうだったので、自転車を押して歩いているうちに、首渕との道に合流しました。
ここからは、徒歩で現地に向かいます。
上記のホームページで、坂田越後守の供養塔があるらしいのは知っていましたが、じつはどこかなのか全く知りません。ただ、地理院地図に「∴」、史跡・天然記念物のマークがある場所があるため、ここが供養塔なのだろうと見当をつけました。
歩けることは歩けるのですが、災害で崩落しているため、かなり苦労します。
道幅に対してえらく迫ってきていると思いつつ歩いていて、どうやらこれ、土地がずり落ちて道がつぶれかけた跡なのだと気づきました。九州北部豪雨の爪跡がすさまじい……。
歩いているうちに、とにかく蜂の羽音がどこまでも響きます。黒い虫?蜂?が身体の周りをぐるぐると周回しているのですが、とてもこの2匹の音とは思えないほどの音量です。
出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)という戦前の宗教家が居ます。彼は蜂の羽音がしたら講演を切り上げて帰っていたといいます。なんでも低級霊が動くとき蜂の羽音に近い音がするそうで……。まさかそんなことはないだろうと思いつつも、やはり山中からこれほどわんわんと響いてくれば、もうこれ以上足を進めるな、と言われている気もします。
残念ですが引き返すことにして、来た道を振り返ると、来た道もまた、山がずり落ちてきた跡なのだと気づきます。ここも九州北部豪雨の影響か……。
今はただの荒れ地ですが、平らな土地があちこちにあります。むかし、ここは田畑や宅地だったりしたのでしょうか。そうこうしていると、自転車のところまでたどり着きました。
下りはちゃんと轍があり、車がとおった形跡があります。さらに下っていくと、どうやら屋敷の跡と思われる場所に出ました。壊れた耕運機がそのままになっています。
災害復旧工事の現場にでました。田んぼを再建しているのでしょうか。
山の神を祀る御堂や、御大師様の御堂がありました。どうもこの辺りが、首渕集落の中心部だったのかもしれません。これらの御堂については、「神社めぐり」で後日取り上げたいと思います。
砂防ダムの工事現場の向こうに、なにやら石かコンクリートで出来たものが見えます。あれがもしかすると坂田越後守の供養塔か!と思いましたが、渡れません。いずれこの砂防ダムの工事が終わったら、再度確認に来たいと思います。
麓の集落に出ました。ここからは長谷山交差点をとおり大己貴神社にお参りしてから、帰宅しました。
行きはなかなかしんどい行程でしたが、もし買えるなら首渕の土地は良いかもしれません。電柱はなく、ソフトバンクの携帯もアンテナは立ちませんが、不思議と落ち着きます。
ビニールハウスを建てて、野菜作りをしながら、休日を過ごしたりできれば、最高なのですが。
tower.jpごはんをつくる気力はないので、途中のコンビニで冷やし中華を買い求め、アンソニー・コリンズとロンドン響のシベリウス「交響曲第7番」を聴きながら、日記と、この日訪問した神社の感想を書いて過ごします。
1950年代のモノラル録音ながら、やはり良いものは良いと思える演奏です。