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原付のかたがチラシ配りをされていました。「この辺りに神社があるはずですが?」と訊くと、この石段の上だと教えてもらいました。
しっかり南京錠がかかっており、社殿等は見あたりません。
隣の土地に、お堂らしきものがあります。
探題塚の由来について
元寇に備えし探題つわものが眠れるやしろに夏の草かけ
私共のふるさと姪の浜は元寇の折、鎌倉幕府が元軍の来襲に備えて探題を置いた所です。
鷲尾城(今の愛宕山)や防塁を築造したり点検報告を各守護にさせています。
初代探題を北條時定と言い、弘安五年(1282)以降姪浜裏山館でその任に当りました。
その後、足利一族が探題となり、幕府の任命する最後の探題渋川尭顕は、ここ光運寺山城(万正寺山)で戦死しました(1534ごろ)。この尭顕を葬ったのが探題塚です。
即ち二百五十年の長きに亙って防塁を構築し外敵の侵攻から日本の国土を護りました。
姪の浜は日本の国防の第一線だった訳です。
このような祖先の労苦に対して私たちは感謝の気持ちを永久に忘れてはなりません。
数年前の台風雨で荒廃した本殿等を修復するため、姪の浜を中心にした有志の方々の芳志によりその復興が完成いたしました。
茲にその由来を記し感謝の誠を捧げます。平成二年八月吉日
お堂には探題将軍の扁額があり、直視させないよう、壁が設けられていました。
お堂の足元に、神社の扁額が立てかけらていました。
ということは、どうやら埴安命(はにやす。大幡主こと博多のお櫛田さん)は、このお堂に合祀されているのかもしれません。
福岡県神社誌:記載なし(発見できず?)
[社名(御祭神)]?
[社格]?
[住所]?
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2022.04.03訪問)