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非常に有名な神社です。たぶん県内でも5指に入る人気神社ではないでしょうか。
福岡県神社誌には以下のとおり、由緒の記載があります。
鎮座文禄元壬辰年。明治十二年十月二十五日許可を得て那珂郡堅粕村東松原より東公園地内清浄の地に移転、更に昭和三年十月二十七日許可を得て現在の地に移転。
社説に曰く、香椎宮社家の子武内平十郎(後隠居して五右衛門と称す)博多に分家し、神屋と号して商業を営む、此の者天正十九年正月三日年始に当り香椎なる父の家に到り、香椎宮、筥崎宮へ参詣の帰途浜辺潮先に於て恵比須大神の尊像を拾ひ上げ之を自宅に奉斎せしが後拾ひ上げたる地に御社を建て氏の神と家運大に栄えたりと云ふ。
当社の古文書写次の如し。
一、天正十九年正月三日香椎宮、筥崎宮へ参詣の帰り浜辺潮先に於て拾ひ上げ勿体なくも奉祝千代松原沖恵比須宮、天正十九年正月十日 隠居武内五右衛門
一、翌年正月十日恵比須と称し拾ひ上げたる場所に御宮建立自身御供致し御酒肴色々捧げ祭事賑々敷相営み祭典相営仕毎年不相変祭事致し、追々世人の知る所と相成聞伝へ年々参詣多くなり愈御繁昌に相成非常之事に御座候
祭事は正月九日、十日に十日恵比須と称し祭礼を行ふ恵比須座と称する御座即ち撒饌を戴く儀式なり、又福引ありて恵比須神社特有の賑かなる祭なり、参拝者約十万に達すと云う。
十日恵比須神社
社伝では、天正19年(1591年)正月、武内五右衛門が香椎宮・筥崎宮参詣の帰途、千代松原の波打ち際で恵比須神像を拾い上げたのが神社の起こりとされます。恵比須神社は七福神の一神で、漁民、商家の守護神とされ、人々の信仰を集めています。正月の縁起をかつぐ十日恵比須祭りは、8日を初えびす、9日を宵えびす、10日を正大祭、11日を残りえびすと呼び、多数の参詣者はもとより、参道を埋める露店や博多芸妓の「徒歩参り」で大変な賑わいを見せます。
福岡県神社誌と現地案内板だけを読むと、香椎宮の宮司をつとめた武内五右衛門がえびす様を拾いあげてお祀りしたのが最初と読めます。
のちに武内五右衛門は「神屋」を名乗って分家し、商売人となります。
天文20年(1551年)、博多の豪商神屋家5代当主・神屋紹策の子として誕生。 神屋氏は代々博多の貿易商人の家であった。曽祖父の神屋寿貞は劣化していた石見銀山を再開発、灰吹法の本格導入によって、その再生に携わった。
天正10年(1582年)5月、同じ博多の豪商島井宗室と共に上洛し、時の天下人・織田信長と近江国安土城にて謁見した。信長の保護を得ることで、当時九州で日の出の勢いで勢力を拡大していた島津氏を抑えるとともに、豪商としての地位をさらに極めようと考えたのである。
この神屋氏から出た人物でもっとも有名なのは、秀吉の側近であった豪商 神屋宗湛でしょう。彼は、曾祖父が再興した石見銀山の資力と、たぐいまれな政治力で豪商にのしあがり、秀吉死後は、黒田藩の御用商人となります。
となると、えびす様もほんとうに海沿いで拾ったものかどうか、疑わざるをえません。最初は屋敷神として自宅で祀っていたものを、神社として祀りなおすにあたり、「いわれ」を必要としたのではないか、そう考えるのです。
当時、社は崇福寺境内にあったようですが、博多に分家した香椎宮ゆかりの武内家の一族が、最初は自宅に祀り、のち千代の松原に一社を建立したのが始まりらしいとのことです。
恵比須神社は本来、漁業と深い関係にありますが、どちらかというと十日恵比須神社は“商人色”が強いようです。漁業でも“流通”関係が目立っており、起源との関連をうかがわせます。
このあたり、神社もしょうじきにホームページで紹介しています。
有名神社のわりには、そこまで境内は広くありません。みっちりと社務所と社殿が建っています。ここは、事代主の父神(個人的には実父ではなく養父だと考えています)である大国主を出雲大社から迎えて合祀しており、左右に扁額が並んでいます。
神屋氏と石見銀山の結びつき、そしてこの博多の地がお櫛田さん(大幡主)以来の「**主(大国主、事代主etc)」の地であることをおもえば、大国主をあえて出雲から里帰りさせて祀る意味も、わかってくるのかもしれません。
福岡県神社誌:下巻379頁
[社名(御祭神)]恵比須神社(事代主神)
[社格]無格社
[住所]福岡市千代町東松原
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2022.02.16訪問)