今日は、個人事務所でお世話になっている知人との用事で、小倉に出ました。
ここ最近、まったく神社めぐりが出来ていません。2時間ほどはやく家を出て、知人事務所の駐車場をお借りして、西小倉駅から門司駅まで移動し、近郊の神社めぐりをすることにしました。
門司駅の改札口を出ると、海側と山側の出口の案内があります。
阪九フェリーと名門大洋フェリーは、ライバル同士、連絡バスをわざと反対側から発着する徹底ぶりです。すごいですね……。
陸橋のさきに見えるのは、企救(きく)半島の背骨、企救山地です。おそらく、足立山や妙見山あたりでしょうか。麓のけっこうなところまで、住宅地として開発されているのがわかります。若いうちはいいでしょうけど、齢をとったらあの坂はたいへんでしょうね……。
「大里海岸緑地」まで移動し、対岸の彦島を眺めます。周囲は釣竿を垂れているかたが6,7人おられました。初老の2人組のかたは、釣竿を固定しておき、持参した折りたたみ椅子に座って、タブレットで碁を打っておられました。
道の反対側は、元サッポロビール九州工場です。ここは、サッポロビールの前身企業のひとつ、帝国麦酒(桜ビール)の本社工場でした。2000年に大分県日田市に新九州工場が出来、いまは「赤煉瓦プレイス」という名前で再整備されています。
門司赤煉瓦プレイス|門司麦酒煉瓦館・旧サッポロビール醸造棟・赤煉瓦写真館など
今回は「神社めぐり」の取材に来ていますので、さっそく海沿いの住吉神社のほか、計3社訪問しました。
大里本町(だいりほんまち)にある「八坂神社」には、大里宿場跡の案内板がありました。
かつては内裏(だいり)であったが、享保年間(1716年~1736年)に大里に変更された。
(略)
内裏(現・大里)という地名は、1183年(寿永2年)、この地に安徳天皇の御所(柳の御所)があったことに由来する。現在御所神社があるあたりが、柳の御所比定地になっている。享保の頃、この地に海賊が出没し、内裏の海に血を流すのは恐れ多いとして大里に変更された。1902年(明治35年)、明治天皇の九州行幸のさい、御所神社の社殿が明治天皇の休憩場所に使われた。安徳天皇の慰霊が目的だったとされる。
安徳天皇の行宮があった場所はのちにちいさな宿場となって江戸時代を迎えます。この町が原型をとどめぬほど大発展したのは、明治にはいってからでした。
明治初期の大里と門司港の沿岸部は、塩田の広がる小さな漁村であった。
(略)
日清戦争後、清からの賠償金の一部で製鉄所建設を計画し、八幡の地が選ばれるが、最終候補地の4か所の一つに大里が含まれていた。一方、神戸の鈴木商店は、製糖工場の建設地を求め、製鉄所の最終候補地ともなった大里が、良質な水、豊富な石炭と労働力、そして交通の面で利点があることに着目する。
そして明治36年(1903)年に、大里製糖所(現・関門製糖)を設立。以後、明治44(1911)年に大里製粉所(現・ニップン)、明治45(1912)年に帝国麦酒(現・サッポロビール)、大正3(1914)年に大里酒精製造所(現・ニッカウヰスキー)、大正6(1917)年に神戸製鋼所(現・神鋼メタルプロダクツ)、大正7(1918)年に日本冶金(現・東邦金属)、その他大里製塩所、大里精米所等を設立し、大里の臨海部に鈴木コンツェルンを形成していく。また、鈴木商店の事業は、対岸の下関にも及び、大正5(1916)年の福岡日日新聞では関門海峡は鈴木の王国として紹介された。
幻の総合商社 鈴木商店―創造的経営者の栄光と挫折 (現代教養文庫)
高校のころに、鈴木商店についての本を買い求め、いまも手元にあります。
日本の実業家。丁稚奉公から身を起こし、鈴木商店の「大番頭」として大正時代には三井財閥、住友財閥、三菱財閥をしのぐ規模の企業グループに拡大させ財界のナポレオンともいわれた。
直吉自身は私財を蓄えることはなく鈴木商店全盛時も借家住まいであり、常に数人の書生に学費を援助し亡くなったときにはわずかな現金しか残っていなかったという。直吉は「鈴木商店はある宗旨の本山である。自分はそこの大和尚で、関係会社は末寺であると考えてやってきた。鈴木の宗旨を広めるために(店に)金を積む必要はあるが、自分の懐を肥やすのは盗っ人だ。死んだ後に金(私財)をのこした和尚はくわせ者だ」と言ったという。
金子直吉についてまじめにやれば、渋沢栄一どころではなく面白いと思うのですが、近場の大里ですらおもうように足跡をたどれていません。
「少子高齢化で縮む日本」とか「落日」といった趣旨の記事が、雑誌やネットメディアに増えてきたように感じます。じっさいのところ、私もそう思われかねない発言をこの日記で多々やってきたのですが、縮めばかならずどこかで伸びるわけです。あと数十年、私たち団塊ジュニア世代がくたばるころまでなんとか耐え抜けば、次の世代からまた新しい金子直吉が登場するのではないか、それまでタスキが渡せるよう、ささやかでも生きていかなければならないのではないか、という気がしています。