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今回(2021年6月6日)の神社めぐりで、最も楽しみにしていた神社でした。
宗像神社末社記に山口若宮社同祭礼次第記に若宮社の神事九月九日地神の事なり、明治五年十一月三日村社に被定。
祭神大直日神は字片山に疫神社、素盞嗚命は字遠園及字岡田に須賀神社として倉稲魂神は字五反田に稲荷神社として菅原神は字野中に天満宮として保食神大歳神は字大年に大歳神社として祭祀ありしを大正四年一月二十日許可を受け合祀、祭神高丘見神倉丘見神は同村同大字字里無格社貴船神社として祭祀ありしを大正五年四月二十四日許可の上合祀。
社説に曰く、昔神功皇后異国退治の時此村を幸行ましましける折柄此処にて休ませ給ひ、夫より見坂越に赴き給ひ、遥に海原をながめさせ給ふ。其の後延喜二年九月九日始めて小方隼人と云へる者、皇后の行幸の例に任せ八幡宮を建立す、今の宮所是なり。詳細なることは宗像神社の末社記にあり、又筑前早鑑及筑前国続風土記拾遺附録に見えたり。年中数度の祭事あり、元文四己未年九月九日神殿造営の棟札あり、時の神主小方頼母正藤原光範代なり。其の頃より神幸湯立神楽等ありて三十三人の宮座祭あり、今日迄例祭日に執行す三座共に本膳一式の神饌を供する例なり。昔より若八幡宮と申けるを正徳二年大宮司小方丹波守光次の代鳥井神名額に八幡宮と記したるに付其後村人は八幡宮と申し奉る。当村を山口郷又は奥宗像とも申し奥宗像郷の産神にして大社なり武運の神として御神徳顕著なり。
福岡県神社誌から由緒の部分を引用しました。
おそらく現地案内板も同じことが書かれているはずなのですが、とうてい読めません。
重要な点は、(1)神功皇后に関する伝承がある地に、現在の神職の先祖と思われる者が建立した点、(2)若八幡宮が八幡宮に書き換えられた点、でしょうか。
玉垂宮神秘書では、足仲彦(仲哀天皇)の死後、高良玉垂命(藤大臣、阿部相凾:あべのしょうかん、開化天皇)と神功皇后は夫婦となったとされており、その二人の子が仁徳天皇であるというのが、私の理解です。
そして、前王朝の天皇である高良玉垂命を登場させたくない日本書紀・古事記において、彼の仮託先となったのが武内宿禰であり、この両者は別人でありながら、意図的に混濁されており、記紀においてほぼ同一視してよい存在と化しています。
となれば、この八幡宮のほんらいの姿は、仁徳天皇とその父母を祀る神社であったはずです。
そう考えると、社殿の脇に置かれている昔の瓦の一部が花菱紋なのも、理解ができます。花菱紋は、高良玉垂命をはじめとする九州王朝正統の紋章だからです。
正徳2年(1712年)に何があったかは定かではありませんが、このときに、どうやら祭神の入替が行われたのではないでしょうか。
拝殿をのぞかせていただくと「敵国降伏」の扁額が見えます。筥崎宮にあるものが有名です。おそらくはその複製でしょう。どうやら徹底して玉垂命や仁徳天皇の存在を消し去り、現王朝の祖である応神天皇を祀る神社に仕立て上げたいようです。
社殿向かって左脇に複数の境内社があり、とくに大きいものは「五良七神社」とありますが、福岡県神社誌の記載と食い違い、どうもよく分かりません。
この神社、境内脇に謎の石段があります。
あまり書くとオカルトだと思われそうですが、どうもこの神社の境内を歩いていると、上に来い、上に来い、と言われている気になってしかたがありません。
登りつくと、平坦な土地がありました。人工林の杉林で視界は不良、よく見えません。ただ、どうもこの位置からは、見坂峠から集落に至る一帯が見渡せそうなことはわかります。神功皇后たちも、情勢分析のため、この低山に登ったのでしょうか。
ここは軍事的な拠点だったのだと、どうやら教えてもらえたようです。
それにしても、これだけ神気のある場所が残っているとは、恐るべし。
福岡県神社誌:上巻286頁
[社名(御祭神)]八幡宮(応神天皇、武内宿禰、神功皇后、大直日神、素盞嗚命、倉稲魂神、菅原神、保食神、大歳神、高丘見神、倉丘見神)
[社格]村社
[住所]鞍手郡山口村大字山口字山下
[境内社(御祭神)]金毘羅神社(崇徳天皇)
[摂社(御祭神)]神武神社(神武天皇)
[末社(御祭神)]記載なし。
(2021.06.06訪問)