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福岡県神社誌に記載はありません。
青い標識は「宮地嶽神社」となっていますが、坂の途中に「桃青霊神社」という案内もあり、戸惑います。
ここに来るには車道を歩かなければならないため、ずっと来たことがなかったのです。
登りつくと、中央の宮地嶽神社の正面向かって右手に桃青霊神社があり、左手に石祠があります。
17)桃青霊神社(とうせいれいしんのやしろ)
俳聖、松尾芭蕉をお祀りしています。隣接して宮地嶽神社があります。芭蕉を神さまとしてお祀りしたのは全国でもここが最初といわれています。
このホームページの記述の珍妙さがお判りになられますでしょうか。ふつう、中央にある神社を紹介し、その脇にある●●と来るはずなのですが、なんと、逆です。つまり、高良大社側では序列をそう認識しているわけで、それならなぜ中央でないのか?と疑問を感じます。
どうもいろいろと調べてみると、この桃青霊神社はそもそもこの場所に鎮座していたわけではないようなのです。
「桃青は俳人、松尾芭蕉の別号にちなんでいる。 現在は、愛宕神杜と高良山自動車道を隔てて、宮地嶽神社の分霊社のある同じ場所にまつられている。この地へ移設されたのは、昭和三十五年頃のことだという。
それ以前は、御手洗池をのぞむ新清水観音堂(自得さんが、この観音堂の堂主だったこともある)の傍に建てられていたのである。この境内には、豊比咩の神をまつる小社も併存していた。往時、この桃青霊社は、筑後一円の俳壇のより所として賑わい、久留米、田主丸、福島などの風雅を志す地方の俳人達の気勢はあがり、なかには中央の俳壇に接し気を吐く者も少なくなかったという。(久留米関係では、荒木泰秋、太田文角、三牧慶五など)芭蕉塚や芭蕉句碑は九州地方だけでもその数実に二百余基もあるといわれる。しかし俳聖とは称されるけれども、文字通り神として蕉翁をまつる神社は、この桃青霊神社の他には全国にも例をみないといわれている。
数多くの芭蕉塚はあるが、その建立も年代を経るに従って、連中の吟社や句集刊行の記念行事として建つようになり、句碑としての性格へと変わっている。初期のものは元禄年間に建立されているが、芭蕉を慕う俳人らの敬虔な気持ちから追善した墳墓形式のものであった。特に蕉翁百回忌の寛政五年(一七九三)から百五十回忌の天保十四年(一八四三)を前後として、芭蕉塚建立が全国的に盛大に行なわれるのである。
桃青霊神社は、その百回忌を念頭に置き、寛政三年(一七九一)に建立計画がされている。時の高良山五十五世座主伝雄は、詩歌に堪能であり、彼の理解を得て田主丸の俳人、岡良山(十寸穂菴)が京都の神祇伯王殿家に懇請して「桃青霊神」の神号を受け、竹野郡、倉富東義、久留米の石田残道、本田魯々、中田秋賀などの賛助を得て寛政五年十月(一七九三)建立となり、寛政八年如月(一七九六)祝文、祝句を詠みあげるうちに遷座式が行なわれた。
その後、文政十一年(一八二八)野分のため祠堂が大破し、修理も出来ないほどであったが、当時の筑後俳壇の隆々たるエネルギーは、三年後の天保二年(一八三一)十一月、早くも再建を可能にしたほどであった。
筑後俳壇の萌芽期は寛文九、十年(一六七〇?)といわれ、それから百数十年間は中央に知られた俳人も多く出て、意気があがる全盛期であったといえよう。しかし明治維新(一八六八)前後を境として、ひとつは知吊な俳人の死、また大きくは内外多事の影響をうけ次第に衰退し、明治末より大正になる頃は、桃青霊神社の祭祀も全く絶えてしまった。
大正十年十一月二十三日(一九二一・旧十月十二日)桃青霊社創建百三十年記念の祭典が御井小学校で行なわれることとなった。「筑後史談会《が主唱し、竹間高良神社宮司、猪田御井町長など賛同、賛助する者も多く、盛況であったという。献詠への応募数二百吊に及び、故人の遺墨展覧会への出品数百八十点筑後の俳書二十一点に達し、昔日の偉光を偲ばせるものがあった。これを機に大正十二年より例祭を十二月一日と改めて定め、筑後俳壇の復興の兆しをもたらすことになった。
しかしながら、このような文芸復興の兆も、軍都久留米の世相と戦争とその後の敗戦という時代の波にのまれていった。
かって桃青霊神社の創建を援助し、復興に寄与した高良山も荒れ、昏迷の一時期があり、由緒あるその境内は人手に渡り、社も文頭の如く移転を余儀なくされたのである。宮地嶽を終いのすみかとするのであろうか。
以前あった場所は、現在、ブリヂストンの石橋家の別荘「水明荘」の一部となっています。ちなみにこの地には豊比咩神社もあって、こちらは高良大社の本殿に合祀されています。
もう一つ気になる点は、御神号を白川神道から授与されている点でしょうか。
吉田神道ではないところに注目しないといけません。
向かって左手の石祠は「自得祠」と呼ばれているようです。
文化・文政の年間といいますから今から二百年ほど前のことです。長い旅を続けてきたらしく、みすぼらしいなりをした一人の若い侍が、高良玉垂宮(たまたれぐう)を目指して参道を登っていました。
うっそうと生い茂った杉や松林に囲まれ、昼なお暗い参道は、通る人とてあまりありません。
谷川に注ぐ冷たい岩間の水で口をすすぎ、身を清めた侍は、また、ゆっくりと登って行きました。
やがて視界が開け、眼下を流れる筑後川のすばらしい景色を眺めながら広々とした高良玉垂宮の境内に着きました。ひっそりと静まりかえった寺務所で用向きを伝えた侍は、山腹の座主院(ざすいん)に案内されました。
そこは、高良山一山の政令をつかさどる座主、伝雄僧正(でんゆうそうじょう)の住まいでした。
当時、伝雄僧正は学問に優れ、名僧と仰がれる立派な人物で、筑後地方はもとより遠くまでその評判は聞こえていたのです。
僧正と対座した侍は「私は東北地方のある藩の家来です。仔細あって藩の上役を刀にかけ殺してしまいました。そのために郷里を追われ、安住の地を求めて諸国を旅し続けている者です。幸いあなたのことを聞き、私自信の身の処し方をご相談したいと思い、お訪ねしたのです」と、これまでのことを一部始終話しました。
じっと耳を傾けていた僧正は「この寺で働く気持があったら働かれたらよろしかろう」と言いました。
この方のそばで働いたならば救われるかもしれないと思った侍は「ぜひお願いします」と頼んだのです。
それからというもの、侍は近くの円明院というところで一生懸命に働きました。
ある日、僧正に勧められるままに髪をおろし、得度(出家)して自得(じとく)と名乗ることになったのです。
僧正は、自得にこれまで空席になっていた新清水観音堂のお世話をする堂守になるよう命じました。
いつしか自得は前罪を懺悔し、自分が殺した人の菩提を弔うため、当時ひどく荒れ放題だったこの観音堂を再建しようと決意したのです。心に決めたらすぐ実行に移さなければ気が済まない自得は、さっそく翌日から久留米の町をはじめ、ふもとの村々に托鉢に出かけました。雨の日も風の日も、雪深い日も炭染めの衣を身にまとい深い編み笠の自得が、高良山を登り下りする姿を見ない日は一日もありません。
一心に托鉢するかたわら、数多くの石仏を作って供養したり、小川に橋をかけたりする自得の姿を見て、人々は「自得さん、自得さん」と親しんでいました。
そうしたある日のことです。久留米の町の豪商紅屋の店先で托鉢をしていた自得は、主人の紅屋次吉に呼ばれ、聞かれるままに観音堂の再建のことを話しました。自得の話に深く感銘した次吉は援助を申し出ました。次吉の協力を得てからは順調に再建が進み、いよいよ喜びの落成大法要が新清水観音堂で催されることになり、近くの村や町から多くの人たちが集まってきました。
お堂の中央前座に自得が進み出て、大法要が始まろうとした時です。参詣していた人垣の中から突然ひとりの若い旅姿の武士が、声高々に「多年探し続けてきた父のかたき、尋常に勝負せよ」とさやを払った刀を右手に自得の前に立ちはだかりました。近くに座っていた人たちは、息詰まる光景に驚き、声をたてる者もありません。
この時です。今にも切りつけようとする若者に向かって紅屋次吉が「この僧は自得さんといって村人たちから生き仏様のように尊敬され、親しまれている方です。今この方を失っては私たちの心のよるべが無くなります。過去のことは水に流してください」と頼みました。
若者は聞かなかったのか聞こえなかったのか、自得をめがけて刀を振り下ろしました。
人々は「アッ」と声をあげましたが、身動きひとつしなかった自得の手に持った数珠と衣の袖を切り落としただけでした。自得の姿に観音様を見る気がした若者は、黙ってそのまま立ち去って行きました。
この出来事があってからも自得さんは亡くなるまで自分があやめた人の菩提をねんごろに弔い続けました。
福岡県神社誌:記載なし(発見できず?)
[社名(御祭神)]?
[社格]?
[住所]?
[境内社(御祭神)]記載なし。(2020.10.24訪問)