美風庵だより

幻の花 散りぬ一輪 冬日の中

京都郡みやこ町勝山大久保 大原八幡神社


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苅田町新津の大原八幡神社を訪問し、九州王朝の残影を発見することが出来、満足していたのですが、もう一方の大原八幡神社は、さらに謎をふかめる存在でした。

御祭神は、この日記でよく使う表記に書き改めると、大原足尼命(おおはらのすくねのみこと)、応神天皇誉田別命)、山幸彦(=ニギハヤヒ五十猛命=香取神=猿田彦)の3柱です。

苅田町新津の大原八幡神社のほうは、さらに仲哀天皇神功皇后も御祭神とされていますので、より日田の大原八幡宮に近い構成となっています。
 
社頭にある案内板を読んでいて驚きました。大原足尼命が住んだ「雲屋敷」は大久保地区にあったと書かれているのです。また、彼が使用するための水を汲んでいた場所が「御手水」という地名になったとも書かれています。

ふるい土俵の跡に、むかしながらの地域に残る文化の痕跡を感じた、大祖神社があるところです。

……大原足尼命が雲屋敷に住んでいたことを受け入れるなら、日田から大原八幡宮の分社を連れてきたのではなく、この大久保地区にある大原八幡神社こそが元宮だということになります。

福岡県神社誌には、応神天皇誉田別命)を相殿でお祀りしたのが寛平8年(894年)と記載されています。つまりそれ以前は、大原足尼命とその祖先である山幸彦を祀る神社だったということです。
 
苅田の大原八幡神社を訪問して、剣花菱の御神紋に感激したのもつかの間、じつは日田が元宮ではない可能性を突きつけられ、困惑しているところです。てっきり、苅田と同じ流れで解釈できるものだと早合点していたため、3社の関係をどう整理するかが、あらたな課題となりました。
 
大久保地区の大原八幡神社が元宮であるとしたとき、894年に応神天皇を祀ることを受け入れたあとに、日田と苅田に分社を展開したことになります。
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大蔵氏 (豊後国) - Wikipedia

そのため、系譜上もはっきりとしたことはわからず、承和年間に任期が満了した後も日田に土着した豊後国司・中井王の子孫説のほかに、日向高千穂神社主祭神三毛入野命(ミケイリノミコト)末裔説や、大蔵氏の祖とする東漢姓の阿智使主(あちのおみ)の子孫の説などがある。
834年ごろに、中井王の子孫という豪族が日田に土着した記録があるも、その一方、宇佐を本拠としていた鬼蔵大夫永弘が日田に居付いて、大蔵日田氏となったという説もあり、渡来の秦氏の系統とされるものまであり、定かではない。
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承和 (日本) - Wikipedia

承和(じょうわ、しょうわ)は、日本の元号の一つ。天長の後、嘉祥の前。834年から848年までの期間を指す。この時代の天皇仁明天皇
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多少でもこじつけが許されるなら、のちに日田氏を称した一族の祖先は大原足尼命であり、彼らの本拠地は最初、大久保地区で、やがて苅田と日田に展開したと考えてもよいのではないでしょうか。つまり、日田氏は物部の一族だったということになります。
 
この点は、もっと調べてみる必要がありそうです。
玉垂宮を上書きしたのは、たんに宇佐神宮の圧力に負けたからだと考えていましたが、どうやら簡単な力関係ではないように思えます。
(2019.08.17訪問)