美風庵だより

幻の花 散りぬ一輪 冬日の中

朝倉市下渕 老松神社 再訪

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前回初見で考えが至らなかった点も多かったため、朝倉市下渕の老松神社を再訪しました。

前回気になってはいたものの文章にするほどアタマが回らなかったのですが、この神社の摂社・末社の配置は、いろいろと考えさせるものがあります。

本殿背後の4つの祠については、そのままこれが本殿の御祭神でもあると考えてよいでしょう。

まず目に付くのは、忌宮神社の祠があることです。足仲彦(仲哀天皇)が下関・長府で7年間行宮を営んだ豊浦宮跡とされているあの神社の祠が朝倉市下渕に存在する……。ここは、羽白熊鷹征伐の途中で、神功皇后が亡夫を祀った……というより、神功皇后をお祀りしているのでしょう。

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忌宮神社 - Wikipedia

仲哀天皇8年(199年)に天照大神住吉三神による託宣を疑ったため筑紫の香椎で亡くなった仲哀天皇を、神功皇后三韓征伐からの帰途、豊浦宮の跡に祀ったのに始まると伝える。聖武天皇の時代に神功皇后応神天皇を奉斎して、仲哀天皇を祀る神殿を「豊浦宮」、神功皇后を祀る神殿を「忌宮」、応神天皇を祀る神殿を「豊明宮」と称し、三殿別立となっていた。中世に、火災により全て「忌宮」に合祀したことから「忌宮」と呼ばれるようになった。

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もし、神功皇后の言い伝えがあって、ほかから神功皇后を勧請しようとなれば、聖母宮といった呼び名でお祀りしたほうが、はるかにイメージもよいはずです。喪中の未亡人「忌宮」という呼び名を敢えて持ち込む必要はありません。となれば、これもまた、神功皇后が「忌宮」だった当時の原型のひとつと言えます。

足仲彦が死んでまもないころの名乗りでお祀りしているのですから。

お稲荷さんは、宝珠紋のついた石祠に宇賀神とありますので、もしかすると弁財天や蛇信仰かもしれません。赤岩社の龍神さまとも関連します。

宗像族のプリンセス市杵島姫と、宮地嶽大明神=筑紫君=玉垂命の2つは、神功皇后軍の中心勢力を示しています。

耕地神は、遠回りな言い換えですが、田神社=タノカンサー(大幡主)で間違いないでしょう。大幡主が居てその娘市杵島姫が居れば、オムコの大己貴はどこにやった?と思いますが、おそらくそれが菅公とすり替わっています。

この老松神社は、神功皇后+玉垂命を中心とした玉垂宮としての性格と、大幡主+大己貴+市杵島姫を祀る神社としての性格の二つを、併せ持っている場所です。

そこを、菅公で上書きしています。

むかし、「その神社が何者か、その地域の祭祀がどうなっているかは、摂社・末社を見ろ」と、飯塚市幸袋の某神社の神職でもあった高校の数学教師から教わりましたが、本当にそのとおりだとつくづく実感します。「何事にも先達はあらまほしきもの」とはよく言ったものです。

(2019.07.07訪問)