〈タワレコ限定・高音質〉朝比奈隆&大阪フィル/ベートーヴェン: 交響曲全集(2000年録音)-20世紀最後のチクルス完全版- - TOWER RECORDS ONLINE
朝比奈隆が、亡くなる1年前に行った最後のベートーヴェン全集の全貌。2000年の「20世紀最後のベートーヴェン・チクルス」時に行われた交響曲の演奏すべてを収録した、空前絶後の文字通りのライヴ「完全版」。岩野裕一氏の新規序文解説を加え最新復刻
朝比奈隆/ベートーヴェン: 交響曲全集(2000年録音) -20世紀最後のチクルス完全版-<タワーレコード限定>
没後20年である2021年を飾る驚くべき"空前絶後"の大型復刻をいよいよリリースします。これらの音源は朝比奈が亡くなる前年にあたる2000年に行われたベートーヴェン交響曲チクルスの演奏会を記録したもので(発売時点では全集として7回目の録音でした)、初出時は各曲がバラで一部リハーサルと2000年時以外の曲(1999年収録の交響曲第7番、1976年の同第8番、1995年のレオノーレ序曲第3番、60年代のレオノーレ序曲第2番等)も入れて各曲1セットで発売されていました。
2021年11月26日に、朝比奈さん最後のベートーヴェン交響曲全集が復刻再発されることになりました。
さっそく予約したのは言うまでもありません。
これは、お亡くなりになる前年に収録されたものです。初出時のCDはいまも所有していますが、すでに本人の気力体力も落ちており、実際の公演では気にならなかったものの、録音になると傷がめだち、あまり聞かずにしまい込んでいました。
今回の復刻再発を知り、久しぶりに第九を聴きなおしています。復刻再発される2日とも、大阪の旧フェスティバルホールで聴きました。1日目だったか2日目だったかは覚えていませんが、フェスティバルホール地下のお店で夕食をとっていたらこの日のソプラノ歌手のかたがどなたかとしゃべりこんでいたのを覚えています。
知人と前年の「第九の夕べ」の感想を話していたら、朝比奈さんの名前を出すたびに隣席のかたのフォークが軽く止まるのに気づき、顔を向けたら歌手のかただったのです。
youtubeには、この全集に収録された前年、つまり知人と話題にした1999年の「第九の夕べ」の模様がアップロードされています。
世間的にどうかは知りませんが、第九の実演は個人的に第一楽章の終わりごろが立派なら、このあとの演奏を聴いてもまず間違いないとかんがえるようにしています。歓喜の歌ばかりが有名ですが、前半あっての後半です。とくに第一楽章はこれじたいがベートーヴェンの総決算ともいうべきもので、初演が1824年ですから、よくまあこんな化け物みたいな曲が200年前に登場したものだと、つくづく感じます。
神奈川の川崎で女子高生が凍えて死にかけているパグ犬を拾うと、なんとその犬は人の言葉をしゃべり「自分はサルトルだ」と言い出します。あわてて女子高生はスマホで検索し、どうやらこいつの前世は哲学者だったと知り、とりあえず家に連れて帰りペットとして飼うことにしました。……というのが導入部です。なかなか面白く読めます。
まぁ、このパグ犬サルトルさん、いいこと言うわけです。「言葉は相手に伝わるよう祈りながら投げるもの」「手にした権利を手放すことは奴隷にもどること」「未来に向けて、なりたい自分に向けて、全力で自分を投げこめ」とか。
企投ともいう。実存哲学の一概念。 M.ハイデガーの Entwurf,J.P.サルトルの projetの訳。人間が自己の存在へかかわる仕方で,人間はすでに事実として世界のうちに投げ出されている被投性において,常に自己にふさわしい可能性に向ってこえ出ようとする。この可能性追求の自由な企てが投企である。ハイデガーでは自己の存在了解として現れ,事実性の制約を受けた被投的投企が強調され,サルトルでは事実性を否定する自己脱出の運動という面が強い。投企の最も根源的様態は,ハイデガーでは本来的自己,サルトルでは理想的存在 (即自=対自) へ向うときみられる。
投機なら年中なにか儲からないかと鵜の目鷹の目でやってますが「投企」って、久しぶりに触れました。「投企」と書くより「未来に向けて、なりたい自分に向けて、全力で自分を投げこめ」と書くほうが、はるかにわかりやすいですね。