大きい地図・ルート検索 ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )
福岡県神社誌にも同様の記載があるのですが、現地案内板のほうが読みやすいため、画像で掲載します。
延暦23年(804年)に出発した遣唐使が途中暴風雨に遭い、最澄が日吉神社(比叡山)に祈願されたところ風雨が止み、無事中国にわたることが出来ました。帰国後、大同2年(807年)に日吉神社を勧請したのが、この長渕の山王神社のはじまりであると書かれています。
案内板に出てくる、最澄(や空海と一緒に)遣唐使として派遣された菅原清公とは、菅公の祖父です。帰国後、菅公の祖父が赴任していた土地に、孫は島流しを食らったことになるわけです。
ずらりと並んでいる御祭神には見慣れない名前もたくさんあります。
豊斟渟尊(とよくむのみこと)の別名が豊国主であると知れば、おのずと海神 豊玉彦のことだと見当がつきます。
国狭槌命は、古事記では大山祗の子とされており、大己貴(大国主)の別名だと見当をつけて間違いないはずです。
国常立命は、過去にこの日記で書いた通り、別名は神皇産霊神(かみむすび)、つまり大幡主を指します。
大物主もこの日記ではおなじみの崇神天皇の父である 大山咋(佐田大神)です。
応神天皇は崇神天皇の子です。これもこの日記ではおなじみです。
宇賀魂命(うかのみたま)は、天照大神(卑弥呼)に仕えた天細女(あめのうずめ)の別名であり、彼女の母親は罔象女神(みずはのめ)であり、そして祖父は大山祗です。
菊理姫命は別名のほうがこの日記の読者には有名でしょう。大幡主の姉 天之御中主のことなのです。
つまり、大山咋の母 市杵嶋姫が天之忍穂耳と別れさせられたあとに(これが七夕伝承の骨格です)身を寄せた大己貴(大国主)のファミリーと一緒にお祀りされているのが、日吉大社(比叡山)の基本形と言ってよいでしょう。
おそろしいほど原型を保っている日吉神社で、この神社が本物の古社であることを、御祭神の顔ぶれが証明しているのです。
----------------------------------------
[福岡県神社誌(抄)]中巻32頁
[社名(御祭神)]日吉神社(豊斟渟尊、国狭槌命、国常立命、大物主命、応神天皇、宇賀魂命、菊理姫命)
[社格]村社
[住所]朝倉郡大福村大字長淵字宮ノ本
[境内社(御祭神)]神明神社(天照大神)、天満宮(菅原神)、愛宕神社(軻遇突智命)
----------------------------------------
(2020.03.15訪問)