松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

福岡県朝倉市杷木池田 杷木神社

以下は多分にファンタジーを含みます。記紀警察による記紀を遵守しない(玉垂宮神秘書、現地案内板、伝承を優先する)姿勢についてのクレームは無視します(2024.08.04)。


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九州王朝説の一部論者がむかし注目していた神社です。以前訪問した記憶があったのですが、この日記を検索してもでてきません。この「神社めぐり」シリーズをはじめる前だったようです。

『福岡県神社誌』中巻,大日本神祇会福岡県支部,昭和20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1040137 (参照 2024-08-04)

「神社めぐり」はありがたいことにアクセス数を稼げますが「好き勝手書きやがって」という批判コメントも多いのが難点です。

まず、基本文献である福岡県神社誌の該当部分を掲載しておきます。

杷木神社
第二十六代継体天皇の御代の筑紫の豪族磐井が反乱を起こした時に朝廷では、鹿鹿火大連(あらかいのおおむらじ)に命じて討伐を命じたが磐井が余りにも強力のため、苦戦に陥った時、この神社の前に幣帛を捧げ祈願されてからは、草木の風になびくが如くに平定することが出来たと言われています。
珍しい行事として、春秋二回行われる鎮祭があります。日本の神々は十月に出雲大社に神集いがあり行くが、杷木神社の祭神はそれには参加せず一年中氏子の安全と豊作を守って働き続けているので、年二回はゆっくりと休まれることになっています。
これが鎮祭で大きな声を出すことはもちろん歌舞音曲を停止、下肥等のにおいをさせず、生の木や竹を切ることも禁じられています。
行事関係
◆鎮祭(春) 三月二十三日~二十六日
◆春市 三月二十七日
◆よど 七月二十六日
◆夏越祭(輪越し) 七月二十九日
◆祭(秋) 十二月二十五日~二十七日
杷木町教育委員会・把木町觀光協会 平成元年十一月

祭神
伊弉諾尊
伊弉冊尊
大己貴命
武甕槌命

現地案内板の一部をOCRで文字起こししてみました。さきの福岡県神社誌と読み合わせると、次のことが推測できます。

  • この地は筑紫君磐井が現王朝に対して謀反したさい、残党の拠点だった場所である。
  • この神社の神は、出雲に集うことはない。

高良大社(高良玉垂宮)に伝わる玉垂宮神秘書(高良記)には、玉垂命は出雲には行かず留まりつづけることが記されています。そして、高良山の麓には「磐井」の地名があります。

通説では筑紫君磐井は八女に拠点がある豪族であり、高良山の麓で官軍と戦って「磐井」の地名が残っているとされます。ただ、賊軍の本拠地でもないのに敢えて誰が讃えたか地名に残るというのはあまり考えにくいことですし、勝利を祈願した場所のはずが、そこにいま鎮座している神様は、その磐井地区から登った山上におられる玉垂命と同じ行動をとるというのも不思議です。

そして、この神社の御神紋は日足紋です。福岡県神社誌では秋月種実公の寄進と伝えていますが、九州北部で神社めぐりをしていると、日足紋が菊池氏や竜造寺氏だけでなく、現王朝が「熊襲」とレッテル張りした氏族や彼らが奉賛した神社にも多いことに気づきます。

現王朝による反乱軍征伐の拠点と称しながら、なぜか反乱した側の拠点っぽい伝承が残ってしまっているのです。

これ以上書くと「記紀以外に真実はない!罰当たりめ!」と記紀警察(笑)からクレームが来そうですが、福岡県神社誌や現地案内板と現地の状況をあわせて考えれば、以下が正しいのではないか?と考えてしまいます。

  • ここは筑紫君磐井の残党征伐が行われた場所であり、いちど残党側(つまりこの地の住民)は降伏している。
  • おそらく住民の追放や入れ替えは行われなかった。現王朝による監視施設として当初は機能していたが、時代が下るにつれてその性格をうしない、(現王朝が熊襲とレッテル張りした)もともとの祭祀が復活した。

そして、杷木大明神として祀られる左殿が「イザナギ・イザナミ」、右殿が「大国主・武甕槌神」というのも世代差を考えれば不思議な組み合わせです。

左殿側の二人は現王朝の祖である天之忍穂耳の母 神俣姫(闇淤加美神)のご両親です。問題は右殿で、武甕槌神は天之忍穂耳の別名であり、大国主とは2~3世代ほど違います。

大国主は大山祇の子 大己貴が大幡主の後継となってから名乗る名前です。彼と彼の仲間であった少彦名(事代主)と建御名方と共同で、古処山地の北側、筑豊地区に多数の開拓伝承を残しています。

嘉穂郡桂川町土師 老松神社(1) - 松村かえるの「かえるのねどこ」

田川郡添田町添田 白山社(白山宮・白山神社) - 松村かえるの「かえるのねどこ」

田川郡添田町中元寺 諏訪神社 - 松村かえるの「かえるのねどこ」

田川郡添田町庄 戸山神社 - 松村かえるの「かえるのねどこ」

そしてなんと言っても、朝倉郡筑前町弥永(合併前は「三輪町」)に大己貴神社があります。

のちに天照大神の夫である高皇産霊神から殺されて出雲に祀り上げられてしまい、さも彼の地にもともと居座っていたかのように錯覚されがちですが、大山祇の子として、大幡主(神皇産霊神)の後継として二つの勢力が合体した大国主となった彼の本拠は、遠賀・宗像・筑豊・朝倉にありました。この神社は、いっけん現王朝による原住民統治の拠点としての性格を帯びつつも、熊襲・国つ神のレッテル張りに耐えつつ後継一族が祖神を右殿に紛れ込ませてきた、苦心の配神が見て取れます。すごいことです。けっこうな数、祭神の総入れ替えをして新支配層に屈した姿を見てきましたから、これだけでも尊いものがあります。

それにしても新支配層と旧支配層、いわば水と油が混在しているわけで、杷木大明神はこの4柱の総称というより、じつはなにか隠されているのではないか?とも思えます。

社殿をじっくり眺めても、この社殿を奉納した往年の財力を感じるばかりで、疑問への答えは見えてきません。

社殿背後に境内社が並んでいます。ひときわ大きいものに「七老神社」とあります。

iPhoneで福岡県神社誌のPDFを検索すると、武内大臣、大国主、天照大神を祀るとのこと。(四人足らないどこ行った?)と最初思ったのですが、振り返れば本殿に4柱はおられます。大己貴と大国主は同一であり、どこかで伝承が混濁したものでしょう。するとここにおられるのは、残党征伐にやってくるよりはるか前から奉斎されてきた方々で、現王朝から押しつけられた皆さんとのつり合い上、本殿にいてもらってはまずい皆様ということになります。

武内大臣(武内宿禰)は、九州王朝最後の天皇 ワカヤマトネコヒコ(開化天皇)こと高良玉垂命を隠すときに使われた名前でした*1

天照大神は、高皇産霊神とのあいだに栲幡千千姫と萬幡豊秋津姫とニニギをもうけます。二人の姫にもらった婿が豊玉彦(思兼命=八咫烏=豊国主)と、天之忍穂耳(海幸彦=武甕槌神)というスーパースターで、天之忍穂耳は現王朝の源流であると考えています。かたや天照大神と神皇産霊神(大幡主)とのあいだに出来た子が彦火火出見尊(山幸彦=饒速日=白日別=五十猛命)で、海幸山幸神話は、異父兄弟とそれぞれの取り巻きによる政権争いを寓話にしたものにほかなりません。

となると、背後の境内社に隠されているのは大国主ではなく、その義父である大幡主である可能性もなくはないわけです。

あまりに推測に推測で恐縮ですが、まずは大幡主や大国主、そして玉垂命をかつぐ一族が居て、蜂起した彼らを鎮圧したのが現王朝側という構図が、この空間に閉じ込められているのです。

福岡県神社誌よりも境内社が多く、おそらく地元各地から集められたものでしょう。
とくにお稲荷さんは元村長さんのお宅にあった屋敷神を、地域の商売の神様としてあらためて祀りなおしたものと案内板まで用意されていました。

福岡県神社誌:中巻39頁
[社名(御祭神)]杷木神社(伊弉諾尊、伊弉冉尊、大己貴命、武甕槌命)
[社格]村社
[住所]朝倉郡杷木町大字池田字上村
[由緒](本文内に画像で掲載)
[境内社(御祭神)]七老神社(大国主命、武内大臣、天照大神)、浅間神社(木花開耶姫命)、夷神社(事代主命)
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。
(2024.08.04訪問)

*1:玉垂命と神功皇后のあいだの子仁徳天皇のとき難波に拠点が移り、九州王朝は完全に終わりを迎えます