7日の記録
三国志演義を読む。
ゲームをやりすぎてどうも気分から三国志が全く抜けず、ひさしぶりに「三国志演義」の赤壁の戦いの部分を読み直しています。
諸葛孔明さん、祈れば天気が変わるし、星をみて寿命がわかる、魔術師です。すでに人間ではありません。
はじめて読んだのが、小学校の図書室から借りてきた岩波少年文庫版の「三国志」でした。学校の行き帰りに歩き読みしていたらすっかり汚してしまい、飯塚の元野木書店で祖父に3冊買ってもらって、新品のほうを返却しました。
その後、元図書室の蔵書のほうは引っ越しを繰り返しているうちにどっかにやってしまいました。
對酒當歌。人生幾何。
譬如朝露。去日苦多。
慨當以慷。憂思難忘。
何以解憂。唯有杜康。
酒を前にしたら大いにうたおう。
人生なんていくばくもない
たとえるなら朝露のようにはかない。
過ぎてしまった日々ははなはだ多い。
まったく悲憤にくれるばかり。
ものおもいから離れられない。
この憂いをどうやって忘れるか。
酒あるのみだぜ!
(注)とっても意訳しています。
かの有名な曹操の「短歌行」は、赤壁の戦いのまえに行われた宴会で披露されます。
やっぱりゲームも進めてみた。
以下のつづきです。
交趾(ベトナム北部)から、秣陵(のちの建業、南京)まで、だいぶ領土拡大できました。孫策、曹操、孔融(孔子の子孫)とは外交関係があるため、こちらから攻め込むと信望がさがります。すると次にねらう場所は、水色で示された劉表と空白都市しかありません。
武威の人口がゲーム内時間7年目で、42万人を超えました。
武威と言っても三国志に興味がなければわかりません。当時の涼州、現在の甘粛省の一部です。
ゲーム内時間で194年9月時点での人口は、7万6千ちょい。まだこの当時は占領していませんでした。占領後に内政値を最大まであげ、他国と隣接しない状況になってから、人口が爆増します。
ではこの住民、どこから来ているのでしょうか。
兵役人口がいわば若者層にあたり、この世代を徴兵しなければ、人口は基本的に自然増していきます。しかし、それだけではありません。戦地から住民がどんどん流出していくのです。ゲーム内時間199年7月の秣陵(いまの南京)の人口は8万5千ほどですが、攻め落とした200年3月の人口は7万ちょいまで減っています。敵から徴兵されて減った分もあるし、そもそも戦地から逃げたひとも居るわけです。
どこに向かって逃げるかといえば、治安(民心)がよく内政が充実した街に向かいます。
ゲーム内時間197年4月と200年5月の各勢力の人口・兵数です。
戦地から遠い(治安のよい安全な)都市を抱えた大勢力はますますでかくなり、敵の降参兵で兵力も焼け太ります。かたや、戦いにあけくれる抗争地は兵役や逃亡でどんどん人口が減っていきます。兵数ばかり増えても人口が増えなければ、税(カネ、食料)が頭打ちになり武将の忠誠度がさがり、兵も逃亡します。
一気に攻め込んでどんどん領土をひろげ、内政ほっぽらかしで短期決戦というのがこの手のゲームのセオリーみたいに言われますが、きちんと内政しておかないと住民が逃げるので、拡大が止まると勢力が維持できません。
当時の記録を見る限りでは、黄巾の乱から続く一連の戦乱、虐殺、農民の離農、悪天候や疫病などにより、中国大陸の人口は大きくその数を減らしている。例えば、後漢末の桓帝の永寿3年(157年)に5648万を数えた人口が、三国時代には818万人の半ばになっており、およそ7分の1になるまでの減少である。
(略)
なお、前漢末に発生した王莽の混乱前における人口数は平帝の元始2年(2年)において5959万余であり、王莽の混乱とその平定後、後漢に入った建武中元2年(57年)は2100万程度で半分以下まで激減、その後持ち直し後漢末にようやく前漢末の水準より少し少ない程度に戻っている。
当時の中国では耕作面積などなどからおおよそ6000万人ぐらいの人口は養える状況だったとのことです。
後漢が滅亡して、三国時代に突入した頃の戸籍登録人口では
魏 4,432,881人(西暦263年)
呉 2,300,000人(西暦280年)
蜀 940,000人(西暦263年)
実際の人口については諸説あり鵜呑みにはできないという話もありますが、この時代のこういうところまでゲームで反映しなくても、という気はします(笑)
そして魏・呉・蜀の人口格差もえらいことで、諸葛孔明さん、よく北伐踏み切りましたね、というしかありません。