松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

大阪府大阪市住吉区住吉2丁目 住吉大社


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「日本三大住吉」のひとつとされ、以前から一度は訪問してみたいと考えていた神社です。

住吉大社

住吉大社 - Wikipedia

住吉大社

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全国各地の神社について記載があるホームページ「玄松子の記憶」では、公式見解の御祭神と、各種文書に残る御祭神の対比を行っています。住吉の神とは誰なのか、ずいぶんと混乱があるのがわかります。

高良玉垂宮神秘書同紙背 (1972年)

この日記では高良大社が約50年前に刊行した高良玉垂命神秘書同紙背をベースに考えていきます。まず、山幸彦(饒速日:にぎはやひ、五十猛命、猿田彦)の子 初代住吉大明神こと鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず)が居ます。その彼の実子と有力部下が5人居て、うち男子3人は住吉三神と呼ばれました。表筒男尊は、鵜葺草葺不合命の実子 安曇磯良(あずみのいそら)。中筒男尊は現王朝の祖 崇神天皇。底筒男尊は 藤大臣阿部相凾(あべのしょうかん)彼はのちに高良玉垂命として九州王朝の天皇となります。

少童三神(わだつみ)と呼ぶときは、鵜葺草葺不合命の実子3人(安曇磯良、豊姫、大海姫)を指します。合わせて住吉五神とも呼ばれます。

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玉垂宮神秘書が記載した住吉五神が頭に入っていると、この境内案内図をみれば、さきほどの「玄松子の記憶」に掲載された御祭神の食い違いがなぜ起きるか、気づきます。

「神代記」の解釈だと、足仲彦(仲哀天皇)の死去後、神功皇后は玉垂命の妃となった点を重視し、夫婦が第3宮と第4宮に並んで祀られていることになります。

三養基郡みやき町白壁 千栗八幡宮 - 美風庵だより

「神別記」「二十二社註式」で、底筒男尊・中筒男尊が併せ祀られているとしたのは、底筒男尊(玉垂命)の痕跡をなるべく薄めようとする意図があります。宇佐や湍津姫(田霧比咩)が登場してくるのは、宇佐神宮に都合が良いよう、歴史が書き換えられた時期があったことの痕跡なのです。また、玉垂命の子であり九州王朝最後の天皇 仁徳天皇につながる系譜への、現王朝の祖である天之忍穂耳-大山咋-崇神天皇-応神天皇ラインによる背乗りの記録と考えてもよさそうです。

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ここまで理解したうえで再度境内案内図をみると、なんと「花菱紋」が御神紋につかわれています。

筑後国一の宮 高良大社:公式ウエブ

玉垂命を祀る久留米の高良大社ですら、現王朝にはばかって一歩引き「花菱紋」を使わず、周りを囲んだ「木瓜紋」にしています。実質的には玉垂宮でありながら、現王朝との関係を考慮して住吉大社とした代わりに、御神紋では譲らなかったわけです。

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以上を頭に入れて、社頭の案内板を読み返すと、じつに興味深いものがあります。

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ひろい境内では、結婚式が行われていました。社殿が4つあるため、どの角度から撮影すればよいか、あれこれ試しましたがうまく行きませんでした。

このあと別件があったのである程度のところで退出しましたが、自分が考えていたよりもはるかに、九州王朝の拠点であった痕跡がわかりやすく残っていました。

いずれ再訪して、もっとじっくり眺めてみたいものです。

(2021.04.09訪問)