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9月3日、お休みをいただいていたので、自転車で上秋月まで足を伸ばしてみました。
赤貧の家から白木神社まで片道9.4kmあります。11:25に自宅玄関を出て、12:08に到着。だいたい時速13キロなので平均的なスピードではないでしょうか。ちなみに標高差が86mなので、ほぼ平坦です。
とはいえ、全身汗だくになってしまいました。到着するなり拝殿に寝転がったので、まるでドラマの殺人現場のように、人間のカタが汗でついてしまっています。このあとあたまがぐーるぐーるとしはじめて初期の熱射病に陥ってしまいました。汗すら出なくなったら死ぬ一歩手前らしいので、タオルが絞れるほど汗が出るならまだまともでしょう。
福岡県神社誌では「白木神社」と記載があり、御祭神は天火明命(あめのほあかり)、スサノオ、五十猛命とされています。あたまのふらつきがおさまったので境内を眺めると、御神木の前に案内板があります。そこには、日本武尊に従い熊襲征伐に従軍した弓削氏が鏡を試作してためしにつかったところ、立派なものができたのでここを「明見社」と称し祀った、とあります。また、ほかの案内板には、「水神を祀る妙見社」という文言も出てきます。
赤貧が考え込んでしまったのは言うまでもありません。
天火明命(あめのほあかり)と五十猛命は、要は山幸彦(猿田彦)の別名です。ここに居るのは、天照大神から追放され、亡命先の新羅のソシモリから五十猛命(=山幸彦=猿田彦)の手引きにより日本に再上陸を果たしたスサノオさんと、その先導役の山幸彦さんのはずなのです。
なのに、妙見社です。しかも日本武尊と熊襲征伐の話が出てくる。
おそらく、昭和時代に建てられた甘木市教育委員会の案内板のほうは、久留米水天宮が天之御中主を祀っていることから水神を連想しているのだと思いますので、こちらは後付けですから除外してよいでしょう。
久留米水天宮の天之御中主は、スポンサーであった有馬の殿様が、自らの氏神としていた神様を祀らせたもので、天之御中主を水神とみなすようになったのは、江戸時代のことです。
地理院地図を調べると、大字上秋月には小字「弓削」が存在します。赤枠が、白木神社の位置で、弓削氏が住んでいた集落は、おそらく現在の弓削集落だったのでしょう。
「弓削」という名字の分布を電話帳データをもとに調べると、南九州に多いことがわかります。
この時点で、だいたい想像はつくと思いますが、熊襲の妙見信仰を持ち込んだのは、弓削氏そのものであり、「あかるくみえる」鏡の話は、後付けなのです。
日本武尊は、以前から主張しているとおり武内宿禰(玉垂命)の別名のひとつです。おそらくは、命乞いに鏡や財宝を進呈したのでしょう。そして、熊襲の信仰である妙見信仰は見逃してもらった。それが江戸時代に久留米水天宮の祭神差し替えで天之御中主が水神の性格をおびることになったのに伴い、のちに牽強付会されてしまった。そう考えるのが、自然な気がします。
ではスサノオと山幸彦はどうなのか。おそらく、もともと熊襲の一員だった弓削氏の信仰ではありますまい。熊襲征伐にあわせて持ち込まれた祭神ではないでしょうか。
(2019.09.03訪問)