応神天皇は、三韓征伐の帰途に筑紫の宇瀰(神功皇后紀。うみ:福岡県糟屋郡宇美町)、または蚊田(応神天皇紀。かだ:筑後国御井郡賀駄郷あるいは筑前国怡土郡長野村蚊田)で生まれたとされています。
久留米方面に所用があったので、6月1日、予定より2時間ほど早く家を出て、久留米市北野町大城の豊比咩神社を訪ねてみることにしました。
しょうじき、カーナビが頼りですが、地図に表示してくれません。googleマップで表示される近所の事業所を目安に、目的地をセットしました。
甘木から20分もかからず現地に到着します。
土曜日の朝8時という時間帯もあるのか、ご近所のかたが清掃奉仕されていました。
そのため、御奉仕のかたと車が写りこまぬよう今回は写真少な目です。
千木は、ここに女性の神様がお祀りされていることを示しています。
狛犬は片足がなく可哀想だと思ってよく見ると、おなかに菊の御紋を抱え込んでいました。
snk.or.jp事前に、昭和29年発行の「大城村郷土読本」にひととおり目をとおしていたせいか、奉仕されている老人のかたに質問し確認するような感じになりました。
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http://snk.or.jp/cda/ohokisi/furoku/4toyohime.html
(略)
また杉山正仲は筑後志に豊比咩神社のことをのべ「(略)或人曰く御井郡塚島村に大石を以て造築せし大塚あり、往古より里民これを止誉比咩宮と称すと。又同郡大城村の内蛭尾(ひるお)と号する処に大石二祠あり。里俗にこれを豊比咩の神という。何れか是なることを知らず。嗟矣夫豊比咩の社は正史に歴然たりと雖も、今其蹤考ふべきもの無きこと慨歎に余リあり。」とあります。
(略)
神霊の至すところ、九州が平定したので、御子国乳別皇子を長く、祭祀の御手代としてとどめられました。成務天皇のとき、筑紫道之中に勅して御井郡を当社道主貴の神部とし、稲置・楯矛をもってそのしるしとされました。稲置の居跡は後に稲数村といい、楯矛等をおさめる兵庫の遺跡を陣屋村というようになりました。
やがて三潴郡も国乳別皇子の領所として永く筑紫道之中の藩屏とされましたが、水沼君こそはこの国乳別の子孫であり、赤司大宮司も水沼君の末裔として今日に至るまで懈怠なく神に仕え、河北惣大宮司として相続したわけです。
神功皇后が西征の途に於て中ツ海(有明海~当時の筑紫平野)を渡られるに際しては、水沼君は軍船をととのえて有明海を渡し、蚊田行宮(稲数村)を建ててこれに迎えました。皇后三韓退治後ふたたび蚊田行宮に入らるるや水沼君はこれを迎え、軍船の名残をとどめてその記念とした。遺卯の御船といって後世長くのこされたのはこれなのです。
皇后は蚊田宮に応神天皇を分娩されるに際しては、水沼君は高天原よりうつしたという潟の渟名井の霊水を産湯として奉った。潟の渟名井は道中の神井として神聖を保った霊泉でした。皇后は縁故ふかい道中の当社に妹豊姫命を道主貴としてととめられ、長く西海の鎮護として重要視されました。そのために当社を豊姫之宮と稱するようになったが、神名帳には止誉比咩神社とあります。
(略)
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日比生と書いて「ひるお」と読みます。
水沼君は、筑紫君であり玉垂命のことです。つまり神功皇后の出産の為に行宮(あんぐう)を玉垂命が準備したと伝わります。「妹を道主貴としてとどめられた」とあるのは重要です。道主貴は天照大神の子供である三女神とされており、宗像大社はその伝承のもとに成り立っているわけですが、神功皇后の妹が道主貴であれば、あの宗像大社の本当の御祭神は誰か?よく検討しなおさなければならなくなります。
ここで、三韓征伐から戻った神功皇后のために仮宮を建てる玉垂命とのただならぬ関係がうかがえます。
高良玉垂宮神秘書で、玉垂命と神功皇后は夫婦となったとあります。豊姫の夫は、住吉三神の表筒男命と伝えられています。
なお、神秘書では表筒男命は、高良玉垂宮の宮司家であり、住吉三神の次男 中筒男命は崇神天皇であり、三男 底筒男命が玉垂命であるとされています。これをそのまま信じることも可能でしょうが、神功皇后の故地であり、ここに祀られているのは神功皇后であると思いたいところです。