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一の鳥居には、堀江大明神の扁額がかかっています。
二の鳥居、石橋、門、社殿が直線に並んでいます。
神野大明神ともいう。
【祭神】
祭神は、景行天皇・神功皇后が主祭神で、他に後宇多帝が蒙古退治を祈願されたとき勧請された風浪権現(住吉三神)などもあわせまつってある。社伝によれば、景行天皇の皇子小碓尊(おうすのみこと後に日本武尊)が熊襲征伐の時、肥前小津の入江にご碇泊、新たに小江を掘った所に竜造船をつなぎ、その中で熊襲征伐の軍議をはかり、この小江を掘ったところに神社を祀り、「神野の掘江大明神」と称えたという。現在の社殿は明治26年9月に改修とある。
【神社の形式】
鳥居をくぐると石橋、石橋を渡ると門、その先に拝殿・神殿(本殿)と直線上に並んでいる。
この神社の配置形式は、与賀神社、本庄神社、八幡神社、蛎久天満宮等、各地に散見され、発生の時期は明確ではないが、江戸時代初頭における県内の神社配置様式と考えられる。
現地案内板と上記のホームページを見比べて、どうしても違和感をおぼえてしまいます。日本武尊の熊襲征伐の言い伝えがあるとのことですが、なぜ日本武尊ではなく景行天皇と神功皇后なのか?という点です。
これ、景行天皇(大足彦)ではなく、日本武尊の子 足仲彦(仲哀天皇)なら、神功皇后と夫婦でしたから、座りもよくなります。
むかしむかしのお話。英雄ヤマトタケルの子、仲哀天皇は、強く美しい神功皇后と夫婦になり、香椎でひとときを過ごすことになりました。
足仲彦ではまずいなにか理由があるのでしょうか?
祭神
祭神は、少童命三座(表津少童命、中津少童命、底津少童命)、息長垂姫命(神功皇后)、住吉三神(表筒男命、中筒男命、底筒男命)、高良玉垂命。
そして、この堀江神社は風浪権現=住吉三神という解釈ですが、元宮の風浪宮は綿津見三神、つまり住吉大明神である鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず)の実子3名としており、誰を祭神にあてはめるかがズレています。
まず日本武尊にたいする祭祀があり、(より有名な)子の足仲彦と嫁の神功皇后が祭神として祀られ、のちに風浪権現(鵜葺草葺不合命の子 安曇磯良たち3名)が合わせて祀られるようになったとかんがえるのが、世代のつじつまが合います。
石橋を渡ると、門があります。敷地の大きさをかんがえると、もとはもっと大きかったのかもしれません。
本殿は男千木がのっているので、景行天皇(とされた日本武尊もしくは足仲彦)が主だということがわかります。
境内にお宮が多いのも特徴です。
ひときわ大きいお宮があり、祖霊靖国社とあります。「氏子中より帰らざる人々」とあり、この堀江神社の管内で戦争で亡くなった方々を祀るお宮のようです。
お稲荷さんのほかにも境内社があります。もとは地域内の別の場所にあったものが、移転してきたのでしょうか。
小学校側に、これまたずらりと石祠が並んでいます。
天満宮や稲荷社とあり、やはりこれも地域から集められたもののようです。
庚申塔があり、
さらにそのさきにもずらりと並んでいまず。ざっと数えて25はあります。
本殿正面向かって右手にも、石祠があります。
案内板では、無格社合祀で8柱の御祭神を追加とありましたが、ざっと数えて30はあり、逆に合祀が8柱でおさまったのに驚いてしまいます。
可愛い肥前狛犬がありました。
案内板の前にも肥前狛犬があり、最初、狛犬とわからず妙なかっこうの石だとおもっていました。青柿が置いてあるが、これは渋柿か甘柿かと手にとって眺めていて、ふと目と鼻があるのに気づきました。狛犬さんにお供えを戻して、現地をあとにしました。
掘江神社の創建は明らかでないが、日本武尊や神功皇后にまつわる地名説話の社伝がある。
この神像群には、一国一社の国名神号が墨書されている。これは後宇多帝が蒙古との合戦のとき、戦勝祈願のため納められたものと伝えられている。
神像はすべて一本彫製の木造で、千栗・河上・当社の肥前三社の神像を除き、顔面のみを現わして体部は円筒形に彫り放した実に素朴な彫像であって、像高20~25センチメートル、坐像か立像かも判明しない。神像群の総数は、68像が保存されている。すべてに墨書があり、神名や全国六十余州の国名などが記されている。クスノキの枝を丸彫りしてつくったもので、一部には表皮がのこり、大きく干割れているものもある。
現在は佐賀県立博物館で管理されているようですが、元寇のときに戦勝祈願に奉納された御神体があります。それぞれに全国の一の宮の社号や国号がしるされているとのこと。
以前、埼玉・秩父の秩父神社を訪問したさい、天神地祇社として各地の一の宮が並べて祀られていましたが、規模は違えどほぼ同様のことが、ここで行われていたわけです。
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。
(2022.08.24訪問)