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社殿まで5,6分はゆうにかかる長い参道に、往年の繁栄をしのぶことができます。
宇賀神社の由来
(旧称・一本木神社又は黒田稲荷)所在地 福岡市中央区大宮二丁目二の二
祭神 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
祭事
二月 初午
七月三十一日 夏の大祭(輪潜り)
十二月八日 冬の大祭(針供養)本神社の鎮座する地は、藩政時代は那珂郡平尾村の一本木と呼ばれた所である。一本木の地名の由来は、貝原益軒(一六三〇~一七一四)の「筑前国続風土記」によると、この地に大きなたぶの木(イヌグス)があった事によると記されている。本神社の起源は明らかではないが当初は田圃の中の小さな祠であったものと思われる。
福岡藩六代藩主黒田継高公の時代(享保十七年~十八年(一七三二~一七三三))に藩内は大飢饉で損毛高およそ四十万石、飢餓者七万人牛馬四千頭が死滅と言う甚大な被害をこうむった。世に「享保の大飢饉」と称される。この大飢饉後、藩政の建て直しが一段落ついた頃の宝暦一〇年(一七六〇)藩主継高公が「風雨順時」「五穀豊穣」を祈る気持ちから自分の産神である江戸の橋本稲荷にあやかって、新たに神殿、拝殿を造営し「本社蔵棟札」それ以後、直参、代参を欠かさず続けたと言われる。「本社蔵古文書」
江戸時代は、一本木の稲荷として衆民の信仰を集めていたようである(「筑前国続風土記付録」「筑前国風土記拾遺」)「稲荷」は五穀を司どる神で祭神の倉稲魂命(宇迦之御魂神)は農耕神である。
なお本社の鳥居は、往事福岡と佐賀・長崎を結ぶ街道(現在高宮通)を往来する旅人にとっての道標でもあった。「福岡教育委員会蔵古文書」
継高公建立百年祭を迎えた安政五年(一八五九)寄附者を募ったところ那珂、席田、両郡六十九ヶ村、福岡市中二十九町、二九〇名以上がこれに応じた。「本社蔵古文書」
農耕神としての信仰圏の広がりと共に、福禄の神としても都市商工業者の信仰を得ていた往時の様子を物語るものである。
拝殿の表に掲げられた「宇賀神社」の篇額は、明治六年のものである。明治初年には、一本木稲荷の社名を宇賀神社に改称されたようである。
平成五年十一月吉日 以上文献古文書より 大町氏調べ
二の鳥居、三の鳥居と、横切る市道を渡りながら、社殿に近づいていきます。周囲は民家やアパートの駐車場になっていますが、この規模なら、むかしは店が建ち並んでいてもおかしくはありません。
やっと社頭にたどり着きました。熱心に祝詞をとなえてお参りされている女性がおられます。
私いまだに天津祝詞と般若心経くらいしかそらんじて言えませんので、感心してしまいます(イントネーションは、本職ではなさそうです)。
神社の裏手は月極駐車場となっており、駐車場の裏手は公園や公民館の敷地になっています。おそらくむかしはもっと大きいお宮だったのではないでしょうか。
黒田の殿様と縁がある神社だけあって、社紋は藤巴紋です。
境内にもう一か所お稲荷さんがありました。
福岡県神社誌:下巻381頁
[社名(御祭神)]宇賀神社(宇賀魂神)
[社格]無格社
[住所]福岡市大字平尾字五反田
[由緒]記載なし。
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2022.08.14訪問)訪問当日の様子はこちらに掲載しています。