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八幡宮なのだから応神天皇を祀るのだろうなぁ、と漠然と考えながら石段をあがり社殿の周囲を一周すると、なんと本殿は女千木が乗っています。
ただ、本殿の上に乗っている千木の先端のかたちが男女を示すということについて、神社本庁は「必ずしもそうとはかぎらない」と神社検定のテキストで説明しているようです。
数年にわたり「神社めぐり」シリーズを書いてくると、当時の流行であったり、支配層の交代であったり、なんらかの理由で祭神の上書きがけっこう行われてきたことがわかります。廃仏毀釈で「明神さま」「権現さま」になんらかの神様を充てる必要があって、無理やり届け出たケースもみてきました。
ここも最初から八幡宮一本やりでは、なかったのかもしれません。
となると、誰でしょうか。
社殿の横に、神武天皇と彫られた石碑があります。ヤタガラスもしっかり上に乗っています。
郷社下月隈八幡宮 福岡市大字下月隈字居屋敷
祭神 応神天皇 神功皇后 玉依姫命
由緒
聖武天皇天平宝字三年(西暦七五九年)大宰帥三船親王造立シ給フト社傳ニアリ
筑前國席田郡総鎮守タリシ神社ナリ
明治五年十一月三日郷社ニ定メラル
尚、社説ニ曰ク、勧請ノ年不詳ナルモ此所ハ往古槻隈ノ驛、人皇七十三代掘河天皇寛治五年(西暦一〇九一年)八月大納言源経信卿大宰帥ニ遷リ給フトキ此ノ驛ニテ十五夜ノ月ヲ眺メ夜モスカラ琵琶ヲ弾シ給フ。此ノ際当社ニ詣デ種々ノ神寶ヲ捧ゲ異賊降伏ノ祈願ヲセラレ給フ。又稲居城主光安筑後守特ニ当社崇敬セラレ神殿ノ改築封戸神田等寄附セラレ神主モ多アリ、大祭ニ神興ノ行幸神楽鏑馬等アリテイトモ盛大ニテ近郷唯一ノ大社ナリシカ、応仁元年(西暦一四六七年)ヨリ天正十五年(西暦一五八七年)間ノ久シキ戦乱ニ社殿等兵火ニ罹リ舊記神寶等モ灰燼ニ帰シ封戸神田モ没収セラレタルハ遺憾トスル所ナリ。其ノ後黒田公入國以来格別ノ崇敬アリ、燈籠鳥居神殿ノ建立等アリテ席田郡ノ祈願所ト定メラレ毎歳五穀豊穣ヲ初メ旱魃霖雨ノトキニモソレゾレ祈願アリタリ。例祭日 十月十七日
月隈の由来
貝原益軒 筑前國風土記巻之七御笠郡上に記
古今著聞集曰く、経信卿大宰帥に任して下向の時八月十五夜筑前國席田驛につきたりけるに、天晴月明らかなるに館の前に大なる槻ありけり。枝葉ひろくさしおほひて、月をへたてければ、人を召し集めて、たちまちに其木をきりはらはせて月に向ひて夜もすがら琵琶をかきならして心をすまし、天明ぬればたたれけり。かかるすき人も今はなき世なりけり。篤信曰く、席田のむまやいにしへ此郡の内いづちにありしにや今は其所しれず。若今月隈というふ所、彼経信卿の月を見られし所なるか、大なる槻木ありしよし、著聞にしるし侍れば、槻隈とかけりしを、後にあやまりて月隈と書くにや、月隈は此郡の東山下にあり。此所むかし道ありて、宿驛ありしにや。
どうやら鍵は、玉依姫のようです。
記紀をあえて無視し、各地の神社の由来や伝承を貼り合わせていった、現時点の推測を図にしてみました。
崇神天皇とその子孫による九州王朝に対する背乗りが成功し、その立場で記紀は書かれています。宝満宮は崇神の母がメイン、八幡宮は子がメインという違いはあれど、表裏の関係にあるのです。
また『日本書紀』における神武天皇の称号『始馭天下之天皇』と崇神天皇の称号である『御肇國天皇』はどちらも「はつくにしらすすめらみこと」と読める。「初めて国を治めた天皇」と解釈するならば、初めて国を治めた天皇が二人存在することになる。
神武天皇の石碑は、じっさいには崇神天皇を祀るものと考えられます。
境内にポツンとある石祠が、福岡県神社誌にある宇賀神社でしょうか?
福岡県神社誌:上巻68頁
[社名(御祭神)]八幡宮(応神天皇、神功皇后、玉依姫命)
[社格]郷社
[住所]福岡市大字下月隈字居屋敷
[境内社(御祭神)]宇賀神社(宇賀魂命)
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。
(2022.01.19訪問)