美風庵だより

風にちる 花のゆくえは 知らねども

朝倉郡東峰村宝珠山 岩屋神社




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岩屋神社の境内は広く、複数の境内社があります。免許を取ってすぐ練習がてら来た場所で、高所恐怖症の身には恐ろしく、それきり足が向かなかった場所です。

「神社めぐり」シリーズも近場で未訪問の場所がどんどん減り、思い切って行くことにしました。

現在は「岩屋神社」ですが、江戸時代までは「宝珠山宝泉寺大宝院岩屋三所大権現社」という天台宗の寺院でした。

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明治政府がやらかした日本史上の一大汚点、廃仏毀釈により打ち捨てられた仏像は、村人により一部が守られ、現在、首や胴体が割れた姿で山中に祀り直されています。

寺院としての歴史はながく、中国・北魏からの渡来僧 善正(ぜんせい)が、英彦山を開山した翌年(532年)に始まったといいますから、約1,500年続いていることになります。

神社の御神体である宝珠石(ほうしゅせき、星の玉)は、547年に天から飛来したとされ、それを祀る神殿が作られました。何度も再建され、現在の岩屋神社本殿は、元禄11年(1698年)に当時の黒田藩主黒田綱政公により建立されたものです。

鎌倉時代の書物「彦山流記」(1213年成立?)には山伏たちの修行場彦山四十九窟の第三窟 宝珠山窟として記録され、大日堂があると記録されているそうです。

境内のご案内|英彦山神宮|福岡県添田町

ちなみに、第一窟(第一位)は、現在の「玉屋神社」(上記ホームページの(7))で、天之忍穂耳が最初に天下った場所とされます。

みやこ町 蔵持山修験道遺跡

そして第二窟が蔵持山です。ここもいずれ訪問してみようと思います。

英彦山は元弘3年(1333年)に、御伏見天皇の第八皇子 長助法親王を座主(お坊さんの最上位職・頭領)に迎え、その権勢は現在の姿からは想像できないものがありました。ところが、戦国時代、天正年間(1573年~1592年)、秋月氏や大友氏と争い、何度も焼き討ちをうけ、一気に衰微してしまいます。江戸時代になってからは寺領も取り上げられ、なんとか現在の姿にまで回復したのは、元禄9年(1696年)の天台修験の別格本山とされたところまで待たねばなりません。

このとき、幕府の裁定により英彦山から切り離され、黒田藩の支配下におかれたのが宝珠山宝泉寺、いまの岩屋神社でした。その2年後、元禄11年(1698年)に、現在の社殿を黒田公が建立奉納していますから、おそらくこの時期にはすでに、英彦山への対抗意識があったものと思えます。

黒田藩の支配下となり、英彦山から宝満修験の末寺に切り替わったのに、御祭神(御本尊)は観世音菩薩(イザナミ)、釈迦如来イザナギ)、阿弥陀如来(天之忍穂耳)と、英彦山と同一とされました。

北九州市八幡西区藤田1丁目 春日神社 - 美風庵だより

糟屋郡久山町猪野 天照皇大神宮 - 美風庵だより

これも以前はよく理解できなかったのですが、黒田公には国盗りの野望があったのではないか?と考えてみると、要はここに新・英彦山とでもいうべき拠点をつくりたかったのではないか?と思えるのです。

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この日、最初に訪問したのは大日堂でした。

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鎖につかまりながら石段をあがっていくと、窟(穴)がいくつも続いていることに気づきます。行こうと思えば歩けるのかもしれません。ここで山伏が修行したのでしょうか。

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鎖につかまりながら、奥の院を目指したのですが、しばらく歩くと方向感覚がわからなくなりました。GPSアプリを眺めても、どうも位置が正確とは思えません。100mほど、ずれている?そんな馬鹿な……。

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いったん不動明王とお地蔵さんが並ぶ場所(分岐)まで下山して、あらためて奥の院を目指します。

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ふるい石段をあがるとまた鎖場に出ます。

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鶯窟(うぐいすくつ)に出ました。ホーホケキョ(法華経)と鳴く鶯から名前が採られたのではないかと案内板にあります。ダジャレじゃねえか?と思いつつ、先に進みます。

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どうやらここが奥の院十三仏のようです。少しずつカニ歩きをしながら、手をあわせます。

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来た道を途中まで戻り、標識に従って歩くと、熊野神社に出ました。岩屋神社のちょうど裏手にあります。英彦山後白河法皇によって新熊野社(いまくまのしゃ、現在の新熊野神社)の荘園として寄進されていた時代があり、熊野信仰とも結びついていました。その名残とみることができます。

朝倉郡筑前町当所 当所神社 - 美風庵だより

事解男命:玄松子の祭神記

一書には、穏やかに「もう縁を切りましょう」と言い、「お前には負けないつもりだ」と言って唾を吐いた。 その唾から生まれた神が速玉男命。次に掃きはらって生まれた神が泉津事解之男。

速玉男とは大幡主のことで、事解男は金山彦、そして樟日命とはイザナギと別れ大幡主と再婚したイザナミのことですから、知ってか知らずか、もし岩屋神社本殿がイザナギイザナミ・天之忍穂耳を祀っていれば、前夫と再婚相手がWで目と鼻の先に祀られていることになります。

英彦山神宮 - Wikipedia

また別の伝承では祭神忍骨命の降臨した地とされて山上に一祠が建てられたのが起源とも云う。清和天皇代の貞観7年(865年)に従四位上を授けられたとあり、延喜式神名帳にも忍骨命神社として名を残す。
(略)
英彦山」という山名は、社伝では天照大神の御子(日の御子)である天忍穂耳尊を祀ることから「日子山」と呼ばれるようになったとしている。弘仁10年(819年)、僧法蓮が、山中で飛来した鷹の落とした羽に「日子を彦と改めよ」と記されているのを見て嵯峨天皇に上申し詔によって「日子山」を「彦山」に改めたとされる。

私は英彦山は天之忍穂耳を祀るお宮であり、彼の母でありスサノオの姉である神俣姫の父母 イザナギイザナミは、彼の血縁の由緒正しさを示すために後付けされたものと理解しています。

天之忍穂耳は熊襲から天照大神・高木大神(高皇産霊神)の入り婿になった点ばかり強調してきましたが、彼自身、スサノオの甥という血筋も持っているのです。英彦山について今後調べていくとき、この点も重視していかなければならないかもしれません。

福岡県神社誌:下巻406頁
[社名(御祭神)]岩屋神社(伊弉諾命、伊弉冉命、天之忍穂耳)
[社格]無格社
[住所]朝倉郡宝珠山村大字宝珠山字岩屋
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2021.05.08訪問)