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この高さ2mはあろうかという大きな石が、秋月種時の墓所と伝えらえています。
延徳2年(1490年)、13代当主・秋月種朝の子として誕生。永正9年(1512年)に父が戦死したため、家督を継いで14代当主となった。
種時は、豊後・肥後・筑後 守護職大友義鑑からの自立を目論んで、管領代で、筑前・豊前・守護職大内義興に接近したが、この背反行為に怒った大友義鑑の攻撃を受けて敗れ、結局、大内義興の仲介を受けて降伏した。
1551年に大内義隆が家臣の陶晴賢に殺された後は、豊後の大友氏の家臣となった。
ところが1557年、大内氏を滅ぼした毛利氏の勢力が北九州にまで進出してくると、当時の秋月氏の当主・秋月文種は大友氏から離反して毛利氏と手を結び、このため同年7月、文種は大友軍の猛攻に遭って討ち死にし、秋月氏は一時、滅亡した。
しかし文種の次男・秋月種実は毛利氏のもとに落ち延びて、やがて大友氏の衰退とともに再興を果たした。さらに薩摩の島津氏と手を結んで大友氏に対して反抗し、のち従属して一時期は筑前に六郡、筑後に四郡、豊前に一郡と推定36万石にも及ぶ広大な勢力範囲を築き上げ、秋月氏の最盛期を現出する。
この秋月種時公の孫が、有名な秋月種実公です。wikiには、ずっと近隣の大友氏からの自立を目論み、各地の大名と手を結んで反抗するもかなわなかった歴史が淡々とつづられています。
この墓所がある一帯に、秋月氏の菩提寺であった大龍寺があったと伝えられています。
のちの日向高鍋移封にともない、この大龍寺も移転し、明治初期まで大龍寺・龍雲寺として存続したようです。
秋月藩主の菩提寺は「大龍寺」「安養寺」「龍雲寺」の三寺で、いずれも城址北側の小高い丘に在りましたが、現在その菩提寺はなく境内に歴代の藩主と一族の家臣の墓のみがあります。
この大龍寺跡に向かう途中「キリシタン橋」があります。
大龍寺址、秋月邑の谷中にあり。是禪寺にして、 開山は嘉麻郡臼井村永泉寺の弟二世泰伯和尚なり。秋月氏世々先祖の墓地たりしとかや。 今は寺院もなく、此址のみ残れり。其所に古墓あり。 石に龍充種居士と刻めり。 然れ共いかなる人にや知りがたし。 叉鳴渡山観音堂の上に秋月氏の墓あり。 此所も大龍寺の境内也。
なんと開山、つまりお寺を創建したのは現在の嘉麻市上臼井にある永泉寺の関係者なのです。秋月氏だから秋月に菩提寺があるのだろうと思っていたら、初代住職は永泉寺から来たというわけで、このあたりのつながりを知ると、また面白いのかもしれません。
福岡県神社誌:記載なし(発見できず?)
[社名(御祭神)]?
[社格]?
[住所]?
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2021.10.17訪問)