松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

広島市東区二葉の里 鶴羽根神社


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鶴羽根神社 | 御祈願、お宮参り、七五三、結婚式、厄除けは広島市東区の鶴羽根神社へ

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今回の広島行で最大の収穫となった神社です。

案内板が2種類あり、以下に引用します。

長いので読むのは骨が折れるでしょうからポイントを整理します。

まず1200年ごろに創建され、当初は八幡宮であったが、昭和になりイザナギイザナミを祭神に加えて神前結婚式の普及に取り組みました。

椎木八幡宮から、鶴羽根八幡宮、鶴羽根神社と名称も何回か変更しました。

という内容です。
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鶴羽根神社由緒
當社の儀建久年間(1190~1191)「源三位頼政の室菖蒲の前」安芸国加茂郡西條の郷を領し、没後其の遺言により元久年間(1204~1206)家臣池田左衛門社殿を建立し御祭神を勧請す。修理料として椎木山(二葉山)の寄附ありて椎木八幡宮と稱し、池田氏神主職となれり。元享年間(1321~1324)回禄(火事)に罹り再建されしも兵亂により漸々衰廃に及び小社となり、萬冶二年の頃、同裔丹後守の時世に至り家名断絶し、二年の間奉仕の者なく、明星院の守護を蒙り終に鎮守となる。其の後、寛文元年同院は野上監物を以って當社の祠官に差置。此者氏子中勧進せしめ、社殿を造立し代々祠官たりしが、文政五年(1822)六代目同裔美濃守退転し、以て同七年、石井眞澄祠官となる。天保四年(1833)二月明星院鎮国堂より出火。悉く類焼し同年四月、假社殿落成御遷座ありしも同社域に藩主より饒津神社造営を仰せ出されし為、同六年四月、現在の地に所替にと相成り、旧藩主浅野家より造営の寄附をはじめ、氏子中の勧進により同十四年九月地鎮祭安政三年(1856)五月上棟祭斎行再建全く成就す。因に元は饒津神社一の鳥居と二の鳥居の中間西側にありしなり。明治元年十二月、神仏混淆御引分。明星院鎮守の儀は差止められ、浅野長勲公の撰名により鶴羽根八幡宮と改め、同五年十一月鶴羽根神社と改稱し、広島東部総氏神として村社に列せらる。昭和二十年八月、原爆により社殿一切倒壊せしも消失を免れ、石の太鼓橋、境内の松、石鳥居、唐獅子、石燈籠は無事残れり。現在の御神殿、拝殿、社務所は戦後の困難の中、石井博光宮司の先導と氏子各位の熱烈なる協賛により其の規模は縮小されしも再建せられ現在至る。尚昭和の御代になり伊邪那岐伊邪那美の二柱の神を奉斎し、御神徳を敬慕し神前結婚式を広め、挙式等に関する総ての設備を完備せしは當社を以て濫觴となす。
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鎌倉時代、二葉山山麓に建立された椎の木八幡宮がその前身といわれて、江戸初期に明星院の鎮守社となった。天保6年(1835)に現在地に移り、社殿を再興した。明治元年(1868)に明星院より独立し、その後、鶴羽根八幡宮、ついで鶴羽根神社と名を改めた。その由来は、二葉山があたかも羽根を広げた鶴に似ていることで名付けたといわれている。
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国産み - Wikipedia

神前結婚式を広めるために御祭神を加えるというのもすごい話ですが、古事記がもとになっています。

1900年に大正天皇が結婚の儀を行い、それを一般化した神前式が登場して普及したとされており、なんとなく私たちがイメージする結婚式や披露宴というのは、恐ろしいほど歴史の浅いものなのです。

それ以前はごく一部の名家が豪勢にやっていたにすぎません。

あくまでも男の家でご近所をあつめて祝言をあげ、女の家に男が子供ができるまで入り浸り、ある程度手がかからなくなってから、女の家から子供と嫁が男の家にやってくるものでした。

むかしの戸籍や住民票の出生日や婚姻届の日があてにならないのは、2人がやっていけるかどうか、腹に子供が出来るまでは、お試し期間があったからという理由もあります。

こんな話を書くとどこの国の話だと思われるかもしれませんが、赤貧の祖母や近所に住んでいた明治生まれの女性は、そんなものだったのです。

赤貧の祖母は赤貧が高校生のころに亡くなりましたが、「いまは学生結婚なんてもんがあるんやろ。私らのころは、一緒に半年は暮らして、やっていけるかどうかお試しして、子供が出来たら籍をいれるのが当たり前やった。暮らしていけるかどうかもわからんのに、さきに書類だすとか、ありえん」と言っていましたし、近所によそからお嫁に来たひとに訊ねても大同小異でした。

共同生活するまえから届け出をして、披露宴だのチャペルだのといった人生儀礼を豪華に行いはじめたのは、昭和30年代から40年代ではないか、と赤貧は感じています。きちんとこの点を調べるだけでも、なかなか面白い結果がでそうです。

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 赤貧が驚いたのは、境内にある椎木稲荷神社の存在です。
「もとは朝櫻神社と称しており、戦後改名した」とのことで、御祭神には玉垂命(高良大神=筑紫君)の名があります。

地主大神も、大己貴の別名でしょう。

倉稲魂と保食神オオミヤノメはどれも豊受姫=アメノウズメ=卑弥呼の後継者トヨなので、祭神が重複だらけなのですが、あれこれ合祀してきた結果でしょう。驚くことではありません。

「朝倉」ではなく「朝櫻」となっているのは、よりイメージのよい漢字で言い換えたものです。これを好字といいます。

となれば、この椎木八幡宮というのも、おそらくはさきに玉垂宮があり、それを上書きして成立した八幡宮であるとみることができます。

八幡宮を名乗るためには、大己貴と玉垂命は、都合がわるかったのでしょう。

(2019.07.12訪問)