松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

8月31日の日録のつづきと、9月1日の日録

8月31日の運動経路

小倉の知人事務所に出て、あいまをみて「神社めぐり」をしました。

うっかりでも知人事務所の従業員さんをたよってしまうと、あとで高くつくため今日も路線バスで現地に向かいます。

西鉄バス恒見営業所が、今日の起点(かつ終点)です。

まず天疫神社を目指します。地理院地図に鳥居マークがあり、石段に看板もあるのですが、地図をよく見ると、石段ではない道があるようです。迂回することにします。

荒れ放題です。

しかも何本も竹や柱が立てられ、針金が張り巡らしてあります。入るなというわけです。石段側から来ていたら、渡れないところでした。

敷地の隅に、お宮がありました。外宮そのものはそこまで古くない(むしろ新しい)のに、あまり手入れがされている形跡がありません。

地図で社殿があるはずの場所は、草がのび放題です。

つぎの神社は、地理院地図に鳥居マークはありますが、社号が書かれた扁額などがありません。その代わり「魚族供養の塔」があります。ここはカキ養殖のさかんなところで、カキの直売所がいくつか並んでいました。

で。なに神社かわかりません。

困ったので通りすがりの男子小学生にたずねると「えびす神社」と教えてくれました。

この小学生、返事をしたあと走り出し近所の家に飛び込んだので、まさか警察を呼ばれるのかとひやひやしたのですが、どうやら自宅に戻っただけだったようです。その家を通りかかると「行儀がわるかろが、ただいまくらい言え!」「いつもおらんやん!なしおらんつに言わなつか!」と、やっています。

元気でよろしい(・ω<)

恒見八幡宮です。

いちばん大きな鳥居は社殿や神門の正面ではなく、南側にあります。

3.2km、1時間歩きました。

9月1日の運動経路

電車の遅れがあり、わざと早く家を出たら、逆に乗り継ぎがおかしくなってしまいました(乗り継ぐはずの後続が来ない)。

というわけで急きょ、以前から目をつけていたエリアの神社めぐりをすることにしました。今回の3社はすべて「天満宮(天満神社)」です。非常にまぎらわしいですが、御承知おきください。

JR弥生が丘駅で途中下車し、県道に出て、旧長崎街道に向かって右折します。

ホームセンターのある辺りまでは中央に白線のある普通の道ですが、坂道を登って今町地区からは、離合困難な制限速度20キロの道になります。他人の敷地を借りず道路だけで離合できるのは、軽自動車くらいです。歩行者も車の離合に協力してあげないと、通行すらままなりません。

これは、帰り道の画像なのですが、これをプリウスとアルファードが他人の敷地や路側帯に食い込んで幅寄せしながら、離合していきます。ふだん歩くひとは居ないのか、邪魔すぎると両方からにらまれ、あわてて民家の庭先によけました。

ほかの道と交差する場所には、えびす様や観音さま、長崎街道の標識が設置されています。

地理院地図を確認するかぎり、最初の「天満宮」は、この道の先にあるようです。

郵便差出箱2号(掛箱)|歴史資料/書跡・典籍/古文書|収蔵品のご紹介|郵政博物館 Postal Museum Japan

行きにみかけたとき「まぎらわしい郵便受けを取り付けた家」とおもっていたのですが、帰り道もういっかいよくみると、これ、ポストです。正式には「郵便差出箱2号(掛箱)」というそうです。

たしかに地面に郵便ポストの柱を建てる場所、ないですもんね。ここ。

よほどふるい集落なのか、集落裏手に昔の道の跡がいくつもあります。これ、あとで気づいたのですが、この里道は、ほかの神社の境内につながっています。

地理院地図を参考に、分岐を右にすすみます。

地図のとおり池があるのですが、少しも手入れされた様子がありません。

道があるはずなのに、それらしきものがみえません。

いったん引き返します。

途中まで引き返すと、地理院地図では点線(歩道)となっている道が、そこそこきれいに整備されていました。試しにこちらを歩きます。軽トラックなら充分通行できますし、おそらく2tトラックでも周囲の竹を切り倒せば、通過可能です。

ありました。神社にたどり着きました。

石段のさきはさきほどの耕作放棄地で、その先は、JR鹿児島本線です。

おそらく、むかしはJRの線路側から参道が伸びていたのでしょう(薄い紫が想定経路)

さすがに1時間に10本以上(JR貨物の貨物列車も含めればそれ以上)通過する線路に、神社のためだけに踏切をつくることができず、反対側の集落から神社にはいる道をあらたにつくったものとみえます。

地理院地図にある、なるべく正面石段や鳥居から入る経路がまず迂回路としてつくられ、なんらかの理由で(推測ですが、社殿を補修するための工事車両通行路として)、現在の社殿裏手から直接境内にはいる経路になったとおもわれます。

つぎの天満宮に向かう途中、鳥栖市が設置した案内板と庚申塔がありました。

長崎街道・今町
長崎街道は江戸時代、西洋文明への唯一の窓口だった長崎小倉を結ぶ二五宿・五七里の往来でした、鳥栖市内には北が筑前原田宿・西が肥前中原宿へと通じる道筋が通り抜けていました。
今町は北の木山口~南の田代宿間の町並で、街道沿いに軒を連ねるように家並が続いていました。元禄絵図によれば、町立てされたのは永二年(一六五三)で、通りの東は奈良田村・西は柚比村に属していました。合計三〇戸ばかりの家並が続いていたようです。
現在も町はさほど壊されることもなく残り、昔からの祭り「恵比須さん」も引き続いて執り行われています。
鳥栖市教育委員会

天満宮(社号標は天満神社だが鳥居の扁額は天満宮)です。

境内がとんでもなく広大です。現地案内板を読むかぎり、台風で社殿が破損し、あらたに作り直したものとのこと。これだけの土地にある神社ですから、以前のものはいったいどれだけ大きかったのか……。

登山の服装だったら藪漕ぎできる程度の道が、さきほどの天満宮からつながっています。

最後の3社目、ここも天満宮です。

画像右手に写りこんでいる案内板は、日光や風雨で傷みまったく判読できません。googleで検索すると、5年ほど前までは読めるものだったようで、なんと昭和19年に天満宮を勧請したとのこと。

撮影時にはまったく気づかなかったのですが、近くにいくつか祠などがあったようです。残念なことをしました……。

むかしの町並みが残る今町地区から10分も歩くと、マンションが建ち並ぶJR弥生が丘駅周辺がみえてきました。今回訪問した今町地区のちかくに、amazonの配送センター(アマゾンジャパン 鳥栖フルフィルメントセンター)があり、新旧の町並みが徒歩1時間圏内に同居しています。

JR弥生が丘駅に到着しました。

3.3km、約1時間の散歩でした。

知人事務所のかたと合流し、1軒、顔を出して、西鉄久留米駅近くのモスバーガーで遅い昼食です。なんと1か月半ぶりでした。