松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

久留米市通外町 五穀神社


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西鉄バス「五穀神社前」バス停近くに、立派な鳥居があります。

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田中久重 - Wikipedia

幼い頃から才能を発揮し、五穀神社(久留米市通外町)の祭礼では当時流行していたからくり人形の新しい仕掛けを次々と考案して大評判となり、「からくり儀右衛門」と呼ばれるようになる。20代に入ると九州各地や大阪・京都・江戸でも興行を行い、各地にその名を知られるようになる。彼の作で現存するからくり人形として有名なものに「弓曳童子」と「文字書き人形」があり、からくり人形の最高傑作といわれている。

境内入口の案内板にあるとおり、この地は、東芝の創始者田中久重の故地でもあります。

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はじめてここを訪問したとき驚いたのですが、やたら境内が広々としています。

元は藩営の寺やお堂もあったそうで、廃仏毀釈で神宮寺などが取り壊され、神社だけが生き残ったとのこと。境内は、「郷学の森」という名称で再整備されています。

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五穀神社 - 櫛原天満宮(福岡県久留米市)

【ご創建】
寛延2年5月23日 西暦1749年
【ご祭神】
豊宇気比売神 (とようけひめのかみ)
わが国の総氏神さまとされる伊勢の神宮(外宮)のご分霊とされ、五穀豊穣、商売繁昌をはじめ、私たちの生活全般をお守り下さる神さまです。
稲次因幡正誠公 (いなつぐいなばまさざねこう) 相殿に祀る
享保13年(1728)8月、生葉、竹野、山本の三郡の農民は、藩の重税に耐えられず、減税運動の一気を起こしました。総勢5,700余名が武器を持って善導寺に集まり、御井町まで押し寄せました。
27才の若い家老の稲次因幡正誠は、一揆を起こした首謀者とひとりで会いに行き、「農民の要求に応じる、以前の税は1割1歩減税、首謀者の処刑はしない」という約束をして農民の苦しみを救いました。
農民は喜びましたが、家老仲間の不満、藩の殿様の怒りが後年藩主お世継ぎ問題とからんで、享保19年(1734)、御原郡津古村(小郡市)の庄屋斉田氏宅に幽閉させられました。三千石の家老職を失い、享保21年(1736)悲運のうちに亡くなりました。34才でした。
罪ある身であったため、城下町に帰ることなく、小郡市の霊鷲寺(りょうじゅうじ)に葬られました。
そして彼の死後12年目、寛延2年(1749)、稲次因幡正誠公の人徳をなつかしく思い慕う農民が、五穀神社ご創建にあたり、農業の神様としてお祀りました。
 【歴史】 
久留米市誌より
久留米藩主有馬頼憧(よりゆき)公は、現市内通外町に五穀豊穣を祈るため、印度の農耕神婆珊婆演底主夜神を祭って五穀神社を創建した。これは江戸の神田山幡随意院新知恩寺の礼誉上人の勧めによるもので、神宮寺として、江戸初期まで現御井町矢取付近にあった廃寺円通寺(真言宗)を境内に復興した。

檀王法林寺 歴史3 主夜神信仰の歴史 黒招き猫の起源

主夜神は、もとの名を婆珊婆演底主夜神(ばさんばえんていしゅやじん)といい、華厳経入法界品に、 「恐怖諸難を取り除き、衆生を救護し、光を以って諸法を照らし、悟りの道を開かせる」 と説かれる神様であります。

インドの神様を祀っていた神社だったのが、神仏分離・廃仏毀釈でそんなわけにはいかなくなり、五穀神=豊受大神として祀りなおしたということです。

五穀神社というお稲荷さんとは別系統の社号をちらほらみかけることがあり、違いが謎でしたが、なるほど、インドの神様が由来(ひいては仏教関係者)じゃまずいので、似たような神様をはめこんだ結果なのですね……。勉強になりました。

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むかしは立派な拝殿があったことが推測できます。

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本殿裏手の秋葉大権現も、境内の隅にある天満宮も、真っ赤です。
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子供たちがボールで遊んでいるのを眺めつつ、裏手から境内を後にしました。

福岡県神社誌:下巻419頁
[社名(御祭神)]五穀神社(豊宇気毘売神)
[社格]無格社
[住所]久留米市通外町
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2022.02.27訪問)