美風庵だより

幻の花 散りぬ一輪 冬日の中

朝倉市桑原 五所神社


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この地を治めた三奈木黒田家の殿様(つまり福岡藩本体の筆頭家老ですね)に黒田三左衛門一貫というひとがいました。この一貫公に諫言した目付役(鬼木佐太夫宗直)は家族5名切腹となり、死後付近に熱病が流行し、一貫公も病に倒れてしまいます。目付役が進言したとおり、一貫公の息子 一春公が三奈木黒田家の4代目を継ぎ、一春公の弟で5代目の 一利公が、このお宮を創建します。

自分はえらい、正しいと信じ込んでいる脳筋に隠居を迫り、最後は一家全員切腹に追い込まれたという話は、まさに時代劇の世界です。

この物語は面白いと思ったのか、無格社ながら例外的に、福岡県神社誌に由緒の記載があります。

元禄の頃筑前家老職を勤めし黒田三左衛門一貫は一万四千石を領する名家にて官宅を福岡城内三の丸に設けて上屋敷と称し、所在は下座郡(現朝倉郡)三奈木なりき。資性豪邁にして兎角小事に齷齪せざる三左衛門は素行常道を缺き加之一般庶民にまで難題を提起するなどのことありて、領内の不詳は勿論福岡表に於ても幾多の取沙汰あり、然るに三左衛門は一藩に聞えたる剛腹にて迂濶なる諫言に耳を貸すが如き武士ならず、に慮外なる事申立てんか忽ち迫害其の身に及ぶ、故に数多き家臣の中にも誰一人諫言がましき事を云ふ者とてなかりき。
茲に三左衛門の老臣に鬼木佐太夫宗直といふ硬骨誠忠の目付役ありき、佐太夫は主人の評判に心を痛め、加藤清正以来の由緒ある家柄を此の儘潰すも残念至極なり、此の際厳しく忠言の熱誠を披瀝し一念貫徹すれば幸ひ主人を隠居せしめ一子国松を相続させ主家を盛立てる外なし、而して若し諫言用ひられざる場合は所詮潔く割腹して死すべく決心し、微禄の身分ながら後には退かぬ鐡石心を固めたり。
太夫は先づ妻にも其の意を含め言々血を吐く諫言の二十ヶ條を懐中して、所在小隈の里を馬乗出し福岡表城内上屋敷に罷出でたり。佐太夫は三左衛門の面前に麻裃に威儀を正し、豫て殿の不評判は筑前一藩の物議を醸し居る折柄、速に隠居の上国松殿に家督相続あつて然るべき旨を具に言上したりしも、自信強き三左衛門は一向に取合ふ模様もなく、突付けられしも二十七ヶ條を一目見たるのみにて直ちに書面の意見を用ふる様子もなかりき。余りの事に烈しく、仮令其の刀の錆となるとも此処一寸も動かざる大盤石の佐太夫は更に聲を励まし涙を呑みて一絲乱れざる直言直言を重ねしため、鈍物ならざる三左衛門も苦笑に紛らし言葉を改め主家を思ふ誠忠の志を褒め早々奥に入れり。斯くて佐太夫は直に惣役人を自分の長屋に集め、主人隠居の一件を今明日中に纒むべく説きしが、其の中には心正しからざる者も加はりし為め結局小田原評議に終り、佐太夫が折角の苦心の計画も終に水泡に帰するに至れり。されど一命を賭しての覚悟なれば事茲に及ぶも佐太夫の心は最早鈍ることなく、初夏の日も沈む頃城下より六里の道を悠揚として帰家したり。
扨今日主人三左衛門との対面は如何なる結果を齎すかは大なる疑問なりき、況や惣役人等の意見纒まらざる以上到底主人を動かすことは出来難し、夫は豫て佐太夫と仲良からざる納戸役の庄林要人は私慾を願ふ危険人物にて仲間の者と言合せたれば仮令三左衛門に於て隠居の意志ありとするも、庄林等一味の者之を遮るに定まれり。佐太夫は主人よりの沙汰なきにせよ聊かも驚かざりき、小隈に帰りて今日の首尾を徐ろに妻子に語り聞かせ深く決意の程を示せり、気丈の妻は夫の言葉に多くを問はず、直に一家死別の宴を開かる。佐太夫には今年十二歳の養女寿子の外に総領を安太郎、次男を一次郎と称し九歳と六歳の悪戯気盛りなり、一家の悲劇今起るとも知らざる三人の子等は早くも夕餉を了へ、庭前の小流に出て無邪気なる「蛍来い」を唱ひ居たり、父親に呼ばれたる三人の子は離杯の前に両手を突けり、佐太夫は先づ妻に盃を与へ更に三人に廻し今日主人直諫の結果を精さに語り聞かせ、我諫言用ひられざるに於ては一家盡く死諫する外なし、祖先は大友家の家臣として島原御陣に大功を樹て、主家の安危には後れを取らざる我家柄たる條、此の場合覚悟を決すべく聞かせたるが、流石佐太夫の子たるだけに両親と共に一命を棄つる事をいと快く首肯きたり。盃は三度廻はりて親子五人は雪白の死装束に替へられたり女心のさらでも恩愛の縁に絡まる母親として子の断末魔を見るに忍びず、一人納戸に入りし妻は用意の九寸五分を時を移さず我と我咽喉を掻切りたり。間もなく座敷の床の間の前に三人を列座せしめし大男の佐太夫は修羅王の如く立盡し、後ろに廻つて覚悟でよとばかり、太刀振り翳し続けざまに三人の首打落し、更に納戸に赴きて妻の介錯をなす。斯くて四人の首級を床の上の白紙に並べ、此の上は思置く事はなし、主家に禍する輩は大悪魔となりて容赦無く、掴み殺さんと血潮漲る座敷の正座に麻裃の威容を正し、家宝の和泉守を三宝に載せ、逆手に腹一扶りして返す力を咽喉に当て将棋盤に乗掛り直向けに打伏したれば刀の尖先は咽喉を突通して絶命せり。されど此の壮烈の最後は軒端に咲く夕顔の花より外に知るものなかりき、実に元禄七年五月十六日なり。遺書の文句には「火急ながら申残し候、不忠なる輩に遮られ忠臣却て不忠となる、悪逆の奴原ども三年たたずに掴み殺す者也」と墨痕淋漓たる達筆を以て認められ居たり。
太夫死して二ヶ月経たざる内に庄林要人の一味徒党は不思議にも熱類似の病に罹り多くは重患に斃れたり中にも要人一家の者は悉く悪魔に翻弄されたりと云ふ又三佐衛門も間もなく病気せし故親類加藤五左衛門等協議の末当年十五歳の嫡子国松を家督相続せしめたれば、結局は佐太夫が主家を思ふ一念は死して始めて実現する事となりたり。国松の代になり三奈木の黒田家は果して家名を盛返せり、即天の采配は遂に佐太夫の希望に添はしめたり、三奈木の領内に於ては其の餘徳を感泣せざるものなし、佐太夫の死後十六年を過ぎし寛永六年九月黒田美作は京都に神社免許状を請ひ、下座郡桑原在(今の朝倉郡金川村大字桑原)に一宇を建立し五所権現と称へ、貝原益軒翁は此の社の為祭田記を書かる、此の縁故を以て三奈木の家督相続の際には必ず五所権現に祭祀を行ふこと家例となれり。御所権現は其の後五所大明神と云ひ、更に五所神社と称し熱病の神として霊顕ありと云ふ。
青蔓に絡まれたる鬼木家菩提寺の佐太夫宗直以下五基の奥津城は幾春秋の雨露に叩かれ淋しき昔を語り顔の如し。

「お家のためを思ってやったのに連中め。お前らはお家をつぶすつもりか。奴らめ、死んで三年以内に祟り殺してやる」と書置きして鬼木宗直公が自決したのが元禄7年(1694年)ということになります。

黒田一貫 - Wikipedia

黒田一春 - Wikipedia

黒田一利 - Wikipedia

黒田一貫公の死去が1698年で一春公の家督相続が1699年。一春公は1700年に急逝し、弟の一利公が同年に5代目として家督相続します。

数年で当主が交替する不運を、祟りだと考えてもおかしくはありません。

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三奈木黒田家にしてみれば、祀り上げて抑え込む必要があったわけです。

いまでこそ鳥居と社殿しかありませんが、数百坪はある広い境内には、むかしはいろいろと建物が建ち並んでいたのかもしれません。

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この神社が出来たのは江戸時代、宝永6年(1709年)ですから、江戸時代には鬼が居たことになります。

まんが日本昔ばなし〜データベース〜 - くわばらの起り

昔、兵庫県三田(さんだ)の桑原のあたりに、水が豊かで米もたくさん収穫できる村があった。
(略)
すると、大きなデベソを出して昼寝している寺の和尚さんを発見し、我先にヘソを取ろうと仲間と競り合っているうちに誤って雲から転落してしまった。落ちたところは寺の井戸で、ものすごい雷の音に集まってきた村人たちによって井戸の中に閉じ込められてしまった。
井戸の中から必死に助けを乞うピカ吉を可哀そうに思った和尚さんは、二度と桑原には雷を落とさない事を約束させて井戸から出してあげた。それから今でも雷が落ちそうになると「クワバラ、クワバラ」と言えば、落ちてこないそうだ。

似たような話はほかにもあり、おそらく桑原という地名からの連想から持ち込まれ、地域に根付いた伝承なのでしょう。

【雷が鳴るときにとなえる「桑原桑原」の由来】 - デジタル岡山大百科 | レファレンスデータベース

①『故事・俗信ことわざ大辞典』の「雷が鳴るとき桑原桑原と言うと落雷しない」の項目には、3つの説が載っていた。1つ目は、養蚕による収入が多かった農家では、だいじな桑畑が雷で荒らされないように、お察し下さいという意からとなえた、というもの。2つ目は、雷が桑の木を嫌うとされるところから言った、というもの。3つ目は、江戸時代の随筆「夏山雑談」「一挙博覧」などによれば、「桑原」は菅原道真の所領であった土地の名で、道真配流後、この桑原には一度も雷が落ちなかったという言い伝えから、落雷を防ぐ呪文になった、というものが書かれている。

桑原・くわばら(和泉市)

和泉33ヶ所札所の1つである成福寺を参拝した折、お寺の方から、この雷伝説のある西福寺を紹介され帰り道に寄ってみた。
この話は子供の頃何かの本で、どこかの地方の民話として読んだ覚えがあったので、地元大阪にあったとは思いもよらなかった
因みに、ネットで検索してみると兵庫県三田市桑原 欣勝寺にも境内には雷の子供が落ちたといわれる雷井戸があり、また、長野県千曲市桑原にも菅原道真に関わる雷伝説が語り継がれているということである。全国的には桑原にまつわる話はもっとあるのかも知れない。
菅原道真大宰府に流され、903年(延喜3年)その大宰府で亡くなった後は怨霊(雷神)となり、京都御所を始め、都の各所を襲ったとされるが、、京都府下に「桑原」と云う地名の道真の所領があって、ここだけは落雷が無かったと伝えられており、これも「クワバラ・クワバラ」の語源の1つとされている。
これらの伝説はいずれも桑原という地名が関係しており、この地が他に比べ落雷の数が極端に少なかったことなどから生まれたものと思われるが、和泉の「クワバラ・クワバラ」は何時の時代から語り伝えられているのであろうか、願わくば、和泉の伝説が全国に広がって行ったと実証され、「元祖」という言葉を頭につけて欲しいものだ。

292 桑原の雷さま 甘木市

雷さん縁の井戸なんて、本当にあるのかなと、半信半疑で桑原地区に出かけた。「雷さんが落ちた井戸なら、五所権現さんの境内にありますばい」、トラクターを運転していたおじさんが親切に教えてくれた。確かに、雷さんが落ちた「井戸跡」と書かれた碑が建っていた。
帰りに再び秋月の食堂によって、おばさんに話しかけた。そうしたらおばさん、「あのね、雷さんというのは、本当は菅原道真公のなりの果てよ。菅公の領地には桑畑があって、そこには雷さんが絶対に落ちたことがないことから、「くわばら」の呪文が始まったんだって。これほんとの話」だって。

朝倉市桑原も菅公の所領(もしくは安楽寺(現在の太宰府天満宮)領)だったのでしょうか。少し調べてみると面白そうです。 

福岡県神社誌:下巻355頁
[社名(御祭神)]五所神社(鬼木佐太夫宗直外4名)
[社格]無格社
[住所]朝倉郡金川村大字桑原字元屋敷
[境内社(御祭神)]記載なし。
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。
(2021.03.20訪問)