松江のラーメン店に行ってみたい。
島根にある低評価のラーメン屋は悪い口コミを消すラーメン屋らしい
美味しいのかまずいのかよくわからんけど近くに仕事で行くことになったので行ってみた
「googleの評価を消せる」というのは全く出来ないことはないはずです。
私の個人事務所をgoogleマップに登録していたことがあります。
法人の清算結了登記後に「廃業」申請したら消えたので安心していたら、どこのどなたか存じませんが勝手に個人事務所を再登録されていました。
これも「すでに廃業済み」とgoogleに報告したら消えました。つまり、一回つぶれたことにして、再度登録申請すればいいわけです。違うIDで……。いくらなんでも複数名従業員は居るでしょうから、やろうと思えばできそうな気はしますけどね……。
松江か……遠いなぁ。
出雲・松江⇔小倉・福岡 夜行 出雲ドリーム博多号 - 路線詳細|高速バス|JRバス中国株式会社
https://www.chugoku-jrbus.co.jp/highway/detail/pdf/20230701izumodreamhakata_schedule.pdf
まだこの日記も、それ以前の楽天ブログもやっていなかったころ、一回だけ出雲大社からの帰りにこの夜行バスを利用しました。当時は西鉄さんと一畑さんの共同運行で、JR2社は参入していなかった時代です。
行きはJRを乗り継いだはずだと思って検索してみると、JR飯塚駅から出雲大社まで13時間とかでてきます。知人宅に車を停めさせてもらい始発でJR飯塚駅を出て直方~小倉~下関~山口~浜田~と抜けたはずで、昼過ぎには到着したような?
googleマップだと新幹線推奨となり、「新山口から特急乗れ」。急ぐなら「岡山出て伯備線乗れ」とあります。岡山????
特急券は買ったかもしれません。でも、新幹線課金した覚えもないし……不思議です。
気になるのはこのコメントです。のどぐろ炙り丼……死ぬ前にいちどは食ってみたいものです。高いでしょうね。きっと。
22日の記録。
日記の下書きを作成し終えたら、現実に戻ります。朝のひやむぎ、水筒とお供えのコーヒー、昼弁当を準備します。
いつもは画像右側の安いお茶漬けの素なのですが、たまたまコスモスの特売で永谷園さんのお茶漬け海苔を売っていました。値上げ値上げでもう永谷園には再会できないかと思っていました……(涙)
ひやむぎに具のひとつもないのはさみしいので、塩昆布をのせました。
納豆のお話。
給食で出すためいまは全国で食べるようになりましたが、もともと納豆は東北と九州の一部で食うものでした。
納豆とさといもは東日本と九州の人に好まれ、近畿・中四国の人は余り食さない(さといもが気候上、北東北・北海道でも消費が少ない点は例外として)。逆にパン、ソースは近畿・中四国で好まれ、東日本・九州では余り好まれない。
九州でいちばん消費量が多いのは熊本です。
清正は食文化にもさまざまな影響を残した。たとえば「納豆」の消費量が九州地方で熊本県だけが高い理由は、朝鮮出兵の時に清正が食料として持ち運んだ煮大豆が発酵して納豆になっていたというエピソードに由来する。藁で包んでいた大豆が馬の体温で発酵していて、それを食べた清正は気に入り、『この豆はなんだ?』と尋ねた言葉がなまって、熊本では納豆のことを『こる豆』と呼ぶ方もいる。また熊本城築城のために朝鮮から呼び寄せられた職人たちが釡炒り茶の文化をもたらした話や、県を代表する名産品の馬刺しや朝鮮飴も清正ゆかりの逸話がある。
その熊本には加藤清正公が朝鮮出兵のおりに「発見」したという伝承があります。地場大手の納豆メーカー(マルキン食品、丸美屋)が熊本にあるということもあってか、この「清正公発見説」が通説と化しています。
それにしても九州北部で清正公の人気はすさまじいものがあります。1,000社以上お宮をまわってみると、境内のどこかに清正公を祀る石祠やお堂があるところはあちこち在りますし、小倉に行くときに通る国道322号沿いには「清正公園」があり清正公が石祠に祀られていたりします。
しかし。
もし清正公の発見なら、九州から中四国、関西、関東、東北とどんどん東に伝播していかないとおかしいのですが、じっさい、どう考えてもそうなってはいません。
では、本当のところはどうなのか?これが謎とされてきました。
まず主張されたのは「参勤交代で江戸詰めした影響」というものです。九州各藩から参勤交代で江戸に単身赴任した男たちが、向こうで味を覚えて帰ってきたというもの。このようにして伝播した有名どころは「佃煮」です。保存食として作られていた小魚の塩煮が醤油と砂糖をつかった煮物に変化し、爆発的に全国に普及しました。
ただ、「佃煮」と同様に考えると、べつに中四国や関西でも爆発的に納豆が普及してよさそうですが、そうはなっていません。そこにこの説の無理があります。
じつはもう一つの説があります。
東北からの移住者が伝えたというものです。
前九年の役で、いまの岩手県の辺りが出身の安倍貞任・宗任は九州・大宰府に流罪となります。
【現地案内板より】その昔、東国で源頼義との戦いに敗れた安倍貞任はこの地に落ちのび、鳥屋山に城を築き追っ手を迎え討ったと伝えられている。しかし、ついに城も落ち、一族を引き連れ山を降り逃れたが、ここに至って追っ手の軍勢により千人以上が討ち死にをしたという。里人がその死骸を集めとむらい、以後この地を千人塚と呼ぶようになったといわれている。
この朝倉市内の山奥にも、安倍貞任にまつわる史跡があります。そもそもあの有名なアベベは安倍貞任の子孫を称していますし、いわゆる松浦党も安倍貞任を祖としています。
この説では、東北から集団で九州にやってきた安倍氏とその家臣団が納豆を伝え、九州で普及したとします。するとこの九州では1,000年以上、納豆が食われてきたということになるのです。
では、私の個人的な経験を。
子供のころから、納豆というものがこの世に存在するというのは知っていました。積極的に食うものではありませんが、出てくれば食う、という感じでした。醤油をだばだばかけてご飯にのせて食うもので、豆の味がどうのこうのなんて考えもしなかったと思います。当時、白菜や高菜の漬物も醤油をだばだばかけて塩辛くしてごはんをかきこむものでしたから、同じ発想だったのでしょう。
祖父が東京土産と称してわらづと入りの水戸納豆を持って帰ってきたとき、家族で手を付けたのは祖父母と私のみでした。ほかの家族はだれひとり手を付けませんでしたから、それほど一般的な食い物ではなかったと思います。