過去に「神社めぐり」に掲載するため作成した文章です。現在ではリンク切れとなっている箇所や、すでに情報が古い部分もありますが、再取材はせず当時のまま掲載します(注記:2024.08.25)
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創建不詳であるが、江戸時代初期には既に鎮座してある記述が残る。現在は山口県漁業協同組合彦島支店の守護神として組合員を中心に奉護されている。
恵美須神社の謂れ
昔室町時代 (1338~1573年頃)には海士郷は天川と呼ばれ、長門国志の著者、中村徳美は859年の条に「長門国医師従八位下、海部男種麿(あまべおたねまろ) と見ゆこの氏人の祖此国の海人部に定められて此所に任せられ故に地名にまりけん」
と書いてあります。そうした伝統もあってか、保元の頃(1156年)河野通次が彦島に根拠地を求め水軍にかかわりのあった人々が、 この地を中心に漁業に従事するするようになり、現在の海士郷を形成したものと考えられます。
1858年の記録には海士郷浦と明記されてあるが、漁業権に関する約定証書には天ノ浦と見られる。1775年の記録に、「然処、往古平家落着此方島廻七浦分往古より諸漁仕来候。」というのがある。
恵美須神社について神紋から探すと茨城県の鹿島神社と 福岡県の箱崎宮のどちらかから神玉を奉納されたと思われます。時期については1864年3月吉日に寄付奉納がみられるが、それ以前の唐獅子が有る事から、江戸時代初期かその前の時代に恵美須神社が出来たものと推測します。定かではありません。
拝殿屋根には三つ巴紋があり、これで筥崎宮や鹿島神宮が出てくるのも謎です。もしかすると御神体に、べつの紋章があるのかもしれません。
もし、流れ三つ巴紋とか水巴紋とでもいうべき御神紋を指しているのであれば、宇佐神宮の流れということもかんがえられるはずです。
宇佐神宮は、比売大神に三つ巴紋をあてており、つじつまが合わないとかんがえたのでしょうか?
平治元年(1159年)10月15日、本島開拓の主祖・河野道次自ら祭主となり宇佐神宮より御祭神を勧請する。(略)当宮創祀者である河野通次は保元元年(1156年)保元の乱(後白河天皇と崇徳上皇間の皇位継承問題と、藤原忠通と藤原頼長間の摂関家の内紛によって源氏と平氏を巻き込んだ権力争い)に敗れた後、園田一覚、二見右京、小川甚六、片山藤蔵、柴崎甚平を率いて彦島の地に敗走し、その二十有余年後には、植田治部、岡野将監、百合野民部、和田義信、登根金吾、富田刑部が来島して総勢12名の将を中心に一族郎党が農耕漁釣に精を出し彦島を開拓した。
あくまでも推測ですが、流れ三つ巴紋か水巴紋にちかいものであるなら、彦島八幡宮の出先であり、かつ、豊漁の神様としてえびす様を祀っていた、ということもかんがえられるのではないでしょうか。
(2023.03.21訪問)
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。