過去に「神社めぐり」に掲載するため作成した文章です。現在ではリンク切れとなっている箇所や、すでに情報が古い部分もありますが、再取材はせず当時のまま掲載します(注記:2024.08.25)
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参道入口に鳥居があります。扁額をみると「天満宮」。どこか違う神社に来たのかと福岡県神社誌を確認すると、過去に天満宮を合祀した記録があります。
「村社 志々岐神社」の社号標があり、そのさきの鳥居の扁額は「志々岐神社」です。
一直線の石段です。
社殿正面向かって左側の小さい石碑には、五穀神とあります。
方位盤が拝殿の真ん中にあるのは、あまり見ない気がします(だいたい拝殿のかなり手前にあります)。私は拝殿の社頭、石段の手前で参拝しましたが、もしかすると鈴の位置からして、建物のなかにはいってお参りするのが作法なのかもしれません。すると、この干支方位盤の位置も納得がいきます。
志自岐大明神社(シシキヤマ。神殿1間2間・拝殿2間3間(以下略))
産神也。祭る所神功皇后・十城別命・松浦姫3神也。天慶3年(940)肥前松浦郡より勧請するといふ。
いつも参考にさせていただいているWEBサイトには、このような記述があります。
志々伎神社(しじきじんじゃ)は、長崎県平戸市野子町にある神社。志志伎神社あるいは志自伎神社とも表記する。式内小社、旧社格は県社。九州各地に志々岐・志式・志自岐として分社がある。
式内社 肥前國松浦郡 志々伎神社
旧県社
御祭神
十城別命(日本武尊の御子) 鴨一隼 七郎氏廣
ここで福岡県神社誌や参考にしているWEBサイトを読み返します。
- 神功皇后が志々岐神社が建っている荒熊山に滞在した。
- その謂れをもって肥前國松浦郡 志々伎神社を勧請。
- 志々岐神社の祭神は、神功皇后の三韓征伐に従い、その後当地に留まり西国警護を命ぜられたと伝えられる十城別王(十城別命)。
神功皇后を祀るのであれば、ほかにも勧請できる神社は九州北部に多数あります。そのなかで敢えて志々岐神社であるということは、神功皇后よりも、十城別王や松浦佐用姫のほうが重視されていることがわかります。
福岡県神社誌:上巻114頁
[社名(御祭神)]志式神社(火明神、火酢芹神、豊玉姫神、十城別神、稚武王、葉山姫神)
ここでひとつ気になるのは、福岡市東区奈多の志式神社の存在です。
あくまでも推測ですが「シシキ」というのは地名などではありません。「シシキ」を名乗る一族が居るのではないか、そして、彼らが展開しながら、自らの祭祀を各地に残していったのではないか?ということです。
ではいったいこの「十城別王」とはだれか?
いろいろかんがえてみないといけませんが、神功皇后が背後の守備を任せたという点をかんがえても、おそらくは九州王朝側の人材(九州王朝に連なる一族)だったのではないか?と仮定しておきます。
福岡県神社誌:中巻135頁
[社名(御祭神)]志々岐神社(息長足姫命、十城別王命、稚武王命、菅原神)
[社格]村社
[住所]早良郡内野村大字内野字本村
[由緒]創立天慶三年九月也、息長足姫命三韓帰陣の節旧字荒熊山へ滞座に付其謂を以て志々岐神社と称し勧請ありし由云伝ふ。明治五年十一月三日村社に定めらる。
祭神菅原神は天文二年九月創立にして同大字字本村無格社天満神社として祭祀ありしを明治四十四年十月二十六日合併許可祭神紅梅天神、老松天神は菅原神と同一祭神に付合霊せり。
[境内社(御祭神)]記載なし。
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。
(2023.03.09訪問)
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。