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福岡市東区志賀島 志賀海神社


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【公式】志賀海神社ホームページ

志賀海神社

志賀海神社 - Wikipedia

全国の綿津見神社、海神社の総本社を称する。龍の都と称えられ、古代氏族の阿曇氏(安曇氏)ゆかり地として知られる。
(略)
祭神は、次のように左・中・右殿に主祭神が各1柱、相殿神が各1柱が祀られている。主祭神の3柱は「綿津見三神(わたつみさんしん)」と総称される。
左殿:仲津綿津見神(なかつわたつみのかみ)
左殿相殿:神功皇后(じんぐうこうごう)
中殿:底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)
中殿相殿:玉依姫命(たまよりひめのみこと)
右殿:表津綿津見神(うはつわたつみのかみ)
右殿相殿:応神天皇(おうじんてんのう)

高良玉垂宮神秘書同紙背 (1972年)

綿津見神(少童神)三神について、玉垂宮神秘書同紙背を確認してみます。

鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず)が「住吉大明神」であり、その子は三女二男。女性2名が、表津綿津見神と仲津綿津見神とあります。この部分にかぎらないのですが、この資料、実子・義理の子の区別がありません。また、異母兄弟か同母兄弟かもわかりません。そこは読んでいき、各地の神社の由緒と突き合わせて想像で埋めていくしかありません。

底津綿津見神についてはこの部分に記載はありませんが、別ページに「安曇磯良は志賀」とあるため、これが底津綿津見神を指しているものとかんがえられます。また、嫡男(高良山)大祝の先祖でもあり、住吉三神としてかぞえるときは、表筒男尊でもあります。

整理すると、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず)の子 二女三男を総称して住吉五神、うち二女と安曇磯良が綿津見三神、安曇磯良・神武(実際は崇神天皇)・高良玉垂命が住吉三神と呼ばれるわけです。

一の鳥居は「志賀島」バス停や市営渡船の待合所のすぐ近くにありました。そこから緩やかな坂道を登っていくと二の鳥居がみえます。

志賀海神社
祭神は、底津綿津見神・仲津綿津見神・表津綿津見神。海神の総本社と称えられる当社は、海上守護の神として『万葉集』にも詠われ、古来より信仰されています。毎年1月2日には古式神事「歩射祭」は始まり、近年では1月15日に近い日曜日に、8人の射手が神社参道に立てられた大的を弓で射る「歩射」がおこなわれています。また、神幸行事の他、春と秋の「山ほめ祭」も県の文化財に指定されています。境内には、鹿の角1万本をおさめた鹿角堂、万葉歌碑などがあります。
福岡市 

神社の正式名称は「しかうみ」神社とされています。私がはじめて訪問したのは学生のころでしたが「しかかい」と言っていた記憶もあります(「玄松子の記憶」より少し前)。「しかうみ(にある)神社」「志賀(の)海神社」、両方の意味があるのかもしれません。

子どものころお汐井というのがよくわかりませんでした。お清めに塩をまく、というのはみていましたが、砂がなぜ清める効果をもつのか、不思議でした。いまにしておもえば、砂が清めるのではなく、(塩田において)塩を産むことができる砂そのものを、塩の代用としていたわけです。

志賀海神社と文化財

志賀海神社は綿津見三神を祭り、古来より海の守護神として信仰されてきました。海上交通の要所である玄海灘を臨む博多湾の入口に鎮座し、海人部の伴造として著名な阿曇族に奉祀されました。大同元年(806)には阿曇神に神封八戸が与えられ、貞観元年(859)には志賀海神に従五位上、また元慶4年(880)には賀津万神(志賀島勝馬の祭神)に従五位下の神階が授けられています。平安時代の『小右記』には志賀海神社社司の対宋交通が記され、中・近世には大内氏、小早川氏、黒田氏の加護を受けていたことが当社に伝えられた文書(福岡市指定文化財)によってわかります。
社蔵の鍍金鐘(国指定重要文化財)は高麗時代後期の特色がよく表われ、境内の完存する石造宝篋印塔(福岡県指定文化財)は銘文から貞和三年(北朝年号1347年)に造立の時期が考えられます。
この神社の神事のうち、1月中旬に厄疫退散と五穀豊穣、豊漁の意味を兼ねて行われる「歩射祭」、4月15日と11月15日の春秋に神功皇后伝説にちなんで狩漁を演じる「山ほめ祭」、10月初旬の夜間に遷幸・遷御と芸能が奉納される「神幸行事」はいずれも福岡県の無形民俗文化財に指定されています。

2000年3月 福岡市教育委員会 

上記の案内板の反対側に印鑰社があります。

福岡県神社誌に境内社として「船玉社(天磐楠船神)、不勿来社(久那土神)、愛宕社(加具土神)」の記載があります。これらを合祀したのが、この印鑰社とのこと。辞書には印鑰とはハンコと鍵のこととあり、入り口の守衛として置かれているもののようです。

福岡県指定有形文化財(考古資料)
石造宝篋印塔

宝篋印塔はもともと過去・現在・未来の幸福を願った仏典(宝篋印陀羅尼経)を納めた塔で、わが国では石塔婆の形式の名称となっています。
志賀海神社のこの石造宝篋印塔は花崗岩を用い、高さは334.5㎝です。上部に反花座のある基礎、立方体の塔身、二弧式馬耳形の隅飾りをもつ笠、その上の相輪の四石からなり、塔身の四方には文殊、宝生、阿弥陀、不空成就の四仏の梵字を、また基礎には二面にわたり造立者と貞和三年(1347)の造立年を刻んでいます。
完存する宝篋印塔としては県内最古であり、その清楚な姿からしても、福岡県を代表する石造物のひとつです。

1998年3月 福岡市教育委員会 

県内最古の宝篋印塔が参道脇にあります。

楼門前には、山之神社があります。

楼門を抜けると、目の前に案内板があります。

志賀海神社略記

御祭神
左殿 仲津綿津見神
中殿 底津綿津見神
右殿 表津綿津見神

御由緒
古来、玄界灘に臨む交通の要衡として聖域視されていた志賀島に鎮座し、「龍の都」「海神の総本社」と称えられ、海の守護神として篤く信仰されている。
御祭神は、伊邪那岐が筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原において禊祓(ミソギハラヒ)をされた際に、住吉三神と共に御出現された綿津見三神で、神裔阿曇族によって奉斎されている。
御祭神が、禊祓で御出現された神であることから不浄を特に嫌い、諸々の穢・厄・災・罪を祓い清め、また、海の主宰神であることから水と塩を支配し、私達の生活の豊凶をも左右する御神威を顕現されている。
当社の創建は明らかではないが、古来、勝馬の地に表津宮・中津宮・沖津宮の三社で奉斎されていた。二世紀(遅くとも四世紀)に表津宮(底津綿津見神)が当地勝馬山に遷座、併せて仲津綿津見神・表津綿津見神が奉祀されたと伝えられている。
往時の社殿は壮麗で、末社三七五社、社領五十石を有し、奉仕する者も百数十名いたなど繁栄を極めた。社伝には神功皇后の伝説を多く残し、元寇の役など国家の非常の際に嚇々たる御神威を顕示されたことから、社格も貞観元年(八五九年)従五位上、『延喜式』には明神大社、大正十五年(一九二七年)には官幣小社の殊遇をうけている。

御例祭
御神幸祭 十月第二日曜日前後(隔年斎行)
国土祭 十月第二月曜日(流鏑馬奉納)

特殊神事
歩射祭、御神幸祭、山誉(種蒔)漁獲祭(福岡県無形民俗文化財) 

社殿にのぼる石段の手前、右手側に奉納された鹿の角を収める蔵があり、1万本を超えるとのこと。

社殿の裏手には、摂社・末社が並んでいます。画像左から荒神社・祇園社・大神宮社・惣社です。惣社は、過去にあった375社余りのお宮を合祀したものとのこと。そうとうひろい神域だったことがうかがえます。

画像左から、熊四郎稲荷社、秋葉社、松尾社、神庫をはさんで、磯崎社です。

社殿正面向かって左脇にある今宮神社は、ひときわ大きく、案内板を読むと安曇一族を祀っているようです。

神功皇后による三韓征伐の際、阿曇磯良が亀に乗って皇后らの前に現れたという伝承に因んで後世奉納された霊石があります。ここからもともと現れた場所が拝めるようです。

訪問したのは朝9時ごろで、ちょうど神職による朝のおつとめの最中でした。お賽銭箱のまえにも清めの砂があり、身体に少し振りかけてから、二拝二拍手一拝をしました。

玉垂宮神秘書によれば、綿津見三神は二女一男です。そのせいか、本殿の上には千木がありません。

福岡県神社誌:上巻46頁
[社名(御祭神)]志賀海神社(底津綿津見神(中殿)、仲津綿津見神(右殿)、表津綿津見神(左殿)、配祀玉依姫命(中殿)、神功皇后(右殿)、応神天皇(左殿))
[社格]官幣小社
[住所]糟屋郡志賀島村大字志賀島字勝山
[由緒]当神社略記に曰く、人皇第十二代景行天皇即位十二年、九州御巡幸の砌当社に祈祷あらせらる。因て見るに御創建は是より遥に上代なること確かなり。
古事記上巻に、此三柱綿津見神者阿曇連等之祖神以伊都久神也。阿曇連者其綿津見神子宇都志日金拆命之子孫也。
旧事記に底津少童命、仲津少童命、表津少童命(綿津見神の別号)此三神者、阿曇連等所祭筑紫斯香神也。即ち神代の昔伊弉那岐大神筑紫の日向の橘の小戸の檍原に禊祓ひ給ひ、心身の清浄に帰り給ひし時生れ給ひし御神にして、海神の総本社として鴻大無辺の神護を垂れ給ひ、諸々の海の幸を知食し給ふ故に、神功皇后御征韓に際しては、神裔阿曇連磯良丸命をして舟師を率い御舟を導かしめ給ひ、又元寇の役、近くは日本海海戦等国家非常に際し赫々たる御神威を顕はし給へり。されば屡々勅使の奉幣あり、延喜の御代には名神大社に列せられ或は封戸を奉り神階を給ふ等、上下の尊崇深厚を極め、神領等も頗る多く、仲津宮沖津宮と共に三社別々に鎮祭せられ結構壮麗を極めたりしが、其の後久しく兵乱打続き神領等も次第に失ひて漸次衰微するに至れり。然るに豊臣秀吉九州出陣に際し、朱印地の寄進ありたる外、大内義隆、小早川隆景、小早川秀秋、黒田長政等諸将相ついで社殿の造営神領の寄進等ありて、凡そ面目を改めたるも尚到底昔日の比にあらず。明治五年四月十五日僅かに村社に指定せられたる状態なりしが、大正十五年一月四日官幣小社に昇格仰出されたり。
 千早振る金の御崎を過れ共われは忘れし志賀の皇神 万葉集
 御笠山さしてやかよふ志賀の島神のちかひのへたてなけれは 細川幽斎
神社は諾尊禊祓の古事を伝へ、天浮橋の伝説を秘する白砂青松長汀三里の海の中道さながらに沼矛の如く海表に突出したる処僅に長橋を以て結べる霊島にして、神域は所謂志賀三山と称する勝山、御笠山、衣笠山を負ひ、面積凡そ三万坪老樹鬱蒼として森厳幽邃極まりなし。社殿東方直下は黒潮躍る玄海の怒涛玉を結び、正面はこれ天然の良港博多湾鏡の如く静かなり、古来龍の都或は龍宮と称せられたるも又以て故あることなり。
 名にし負ふ龍の都のあととめて波をわけゆく海の中道 細川幽斎
 浪風をおさめて海の中まても道ある国にまたも来て見む 宗祇法師
海神として、帝国海軍の祖神として、或は漁業者海運業者等の守護神として信仰最も厚く、或は禊祓の神として除災開運を恵ませ給ひ、吾人が日常缺くべからざる御鹽(鹽気)を授け給ひ、又潮の満干により人の生死(命)を司らせ給ふ外、鹿島立(志賀島立)と称し海陸空の旅行安全武運長久を守護せらる。依て古来裏参宮或は島参宮と称し、庶民の信仰極めて篤し。
[境内社(御祭神)]今宮神社(宇都志金拆神、住吉三神、天児屋根命)、惣社(八百万神)、大神宮(天照皇大神、豊受大神)、祇園社(素戔嗚命)、荒神社(奥津比古神、奥津比売神、火産霊神)、松尾社(大山咋神)、秋葉社(火具土神)、磯崎社(大己貴神、少彦名神)、山神社(大山祇神)、船玉社(天磐楠船神)、不勿来社(久那土神)、愛宕社(加具土神)
[摂社(御祭神)]沖津神社(表津綿津見神、天御中主神)、仲津神社(仲津綿津見神)
[末社(御祭神)]記載なし。
(2022.06.20訪問)