松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

福岡市早良区高取1丁目 紅葉八幡宮


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紅葉八幡宮|安産・子安・厄祓は紅葉八幡宮へ

県社紅葉八幡宮です。以前いちど訪問したことがあったのですが、日記を検索しても出てこないので、間違いなく2008年以前のはずです。

昭和の「和」を敢えて異体字で書いてあるため面食らったので覚えていました。

早良総守護 紅葉八幡宮
御祭神
應神天皇 神功皇后 菟道稚郎子命 玉依姫
大己貴命 事代主命 軻遇突知命 金山姫命
素盞鳴命 稲倉魂命 菅原神 埴安命
由緒
平安時代後期(年月日不祥)陸奥国柴田郡より筑前国に来たる柴田氏は産土神である八幡宮の御分霊を勧請したと伝えられる。柴田氏の子孫である柴田蔵人佐繁信親子は橋本村に来住し文明十四年(室町時代一四八二)八幡像を奉斎し本神社を創建した
寛文六年(江戸時代一六六六)福岡藩三代藩主黒田光之候により百道松原に遷され広大な境内と荘厳な社殿が寄進された。
以来当神社は福岡藩藩主黒田家の守護神として歴代藩主より篤く信仰された。光之侯より奉納された大石鳥居には梶井宮慈胤法親王御真筆の黄金に輝く額が掲げられた。藩主は鳥居の前に三戸の家士を住まわせて神社の警固にあたらせた。社前の人家も次第に発展し西新 高取 百道 藤崎等の町々となった。
大正二年現在の地に遷座。大正十一年旧早良郡全首長の推挙により県社に昇格し、早良総守護として、安産子安厄祓等の諸願成就の神として広く崇敬されている。

黒田光之 - Wikipedia

寛永5年(1628年)5月16日、第2代藩主・黒田忠之の長男として筑前早良郡橋本村の別邸にて生まれた。なぜこのようなところに生まれたかといえば、父の忠之が側室で生母の坪坂氏を嫌って、筆頭家老の黒田一貫のもとに預けていたからである。

黒田藩3代藩主黒田光之公がこの紅葉八幡宮を産土神として重視した理由は、自らの出生地のいわば産土神であったからです。その縁で城下にちかい西新に移転しその後、路面電車建設にともない1913年(大正2年)に、現在地に移転します。

福岡市早良区西新2丁目 杉山稲荷神社 - 美風庵だより

現在、旧社地のほとんどが商業地となっていますが、境内のお稲荷さんが残りそのままお祀りされています。いまでは想像もできませんが、西南学院や西新パレスのあのあたりにあったのです。

橋本八幡宮

境内の北側あたりに、黒田藩主の別荘茶屋がありました。350年前の頃のことで、3代光之公は橋本の人を母として生まれ、この地で幼時をすごしました。(略)光之公は産土神として八幡宮を崇敬し、寛文6年(1668)西新町紅葉松原に立派な社殿を建てて遷宮しました。
橋本の人はここから遥拝しておりましたが、たっての希望で後に社殿を再建し

いくら殿様といえども地元の神社を持って行かれたのでは地元はたまったものではありません。のちに元々の八幡宮があった場所に、あらたに橋本八幡宮が建てられました。

直線で4.7km。西鉄の路線バスで25分です。

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そこから門前町を中心として次第に人家が増え、付近地域(現在の西新、高取、百道、藤崎など)が発展していきます。

ただ、この移転も結果として現在の繁栄ぶりをみれば、そう間違った選択ではなかったようにおもいます。沖合に埋め立てられた一帯(シーサイドももち地区)には福岡ドームにホテルに国立病院と、西新一帯は福岡市西部いちの繁華街ですからね……。

宇賀稲荷神社
御祭神 宇迦御魂神
古くより紅葉山山頂に宇賀神社、稲荷神社の二社が鎮座していたが、大正十四年紅葉八幡宮が西新町より当地に遷された際合祀され、宇賀稲荷神社となった。宇賀神社は貞享元年(一六八四年)早良郡田隈村より東山へ遷し、宝永四年(一七〇七年)再び当地に遷した。寛文の頃、拾六町村の山伏が守る所となった。
稲荷神社は元文の頃、東大辻山(現在の紅葉山)西側にあった西辻山より当地山頂に遷し、皿山の産土神として祀られた。
かつてこの地におこしになられた黒田藩四代目藩主綱政侯は、腹痛に悩まされていた。山伏が当社にて病気平癒祈祷をした水を飲んだ藩主はたちまち体調が回復され、大変お喜びになった。藩主は山伏に利生院という名の庵を授け、当社を黒田家の守護神とした。
このことから宇賀稲荷神社は家内安全、商売繁盛の他に病気平癒の御利益も厚く信仰されている。

境内に宇賀稲荷神社というお稲荷さんがあるのですが、案内板を読んでいると、どうやらこの地にもともとあったのがこのお稲荷さんのようです。いわば地主神にあたるものとして一段高い場所にお祀りされていました。

神社めぐりをしているとこういう味のある翁の像をみかけることがあります。この文章を書きながらでもつい手をあわせたくなります。

お稲荷さんの脇には、えびす様が祀られていました。

社殿はなかなか立派なものです。

紅葉八幡宮というだけあって、楼門の横にも紅葉があります。時期になったら美しいのでしょうね……。

紅葉八幡宮|安産・子安・厄祓は紅葉八幡宮へ

神社公式アプリ | 紅葉八幡宮

御朱印AR | 紅葉八幡宮

こういうことにも手を出しておられます。さすがは都会のお宮さんです。

福岡県神社誌:上巻53頁
[社名(御祭神)]紅葉八幡宮(神功皇后、応神天皇、玉依姫命、埴安命、菅原神、素戔嗚命、軻遇突智命、金山彦命、事代主命、稲倉魂命、大己貴命、菟道稚郎子命)
[社格]村社
[住所]福岡市西新町
[由緒]寛文六丙午年八月建立、明治五年十一月三日村社に定めらる。当社は同町大字西新字中東に祭祀ありしを大正二年十月十六日許可を得て当地(西新町大字麁原字大平)に移転せり。
祭神菅原神は大字西新字中東無格社天満神社として祭祀、稲倉魂命は宇賀神社、素戔嗚命は氷川神社、軻遇突智命、金山彦命は秋葉神社として大字西新中東村社紅葉八幡宮境内神社として、祭神事代主命は同大字同字無格社恵比須神社として祭祀ありしを明治四十三年十二月十二日許可を得て村社紅葉八幡宮境内に合併祭祀ありしを本社移転に際し本社に合祀せり。
祭神埴安命は大字麁原字石丸に村社埴安神社として祭祀ありしを大正二年十月十六日許可を得て本社に合祀、同境内神社宇賀神社、大字西新字新屋敷無格社宇賀神社、大字麁原字大平無格社宇賀神社は何れも祭神稲倉魂命にて同一祭神に付合霊合祀せり。
大字西新字中西恵比須神社は祭神事代主命にして大正二年十月十六日本社移転に際し合祀せり。
祭神大己貴命は松河原神社、同菟道稚郎子命は印鑰神社として紅葉八幡宮境内神社なりしを大正二年十月十六日本社移転に際し本社に合祀せり。
大正十一年四月ニ十九日県社に列す。
尚社説に曰く、当社は橋本村(現在の早良郡壱岐村橋本)に在り、鎮座の年代詳ならず。(村老の伝説に文明十四年柴田内蔵助重信といふ士、始めて橋本村に勧請して吾家の鎮守とせりと云ふ)。前国主黒田光之君橋本村にて生れ給ひし故に産神なればとて寛文六丙午年八月橋本村より西新字中東(百道松原)の地に移され本社、拝殿、神厨等新に造立有りて、月毎の祭礼怠らず、九月十一日は恒例の大祭にて神楽、流鏑馬、猿楽等行はる。始め橋本村にては九月九日祭礼を執行せしが、此地に遷し奉りしより、重陽は諸人の暇なき日なる故改めて十一日となせり。
神領百石国君より寄附し給ひ、四辺の松原を附せらる。又貞享二年光之君神前に石の鳥居を新に立て給ふ。鳥居の額は梶井宮滋胤親王の御筆也。
[境内社(御祭神)]宇賀神社(稲倉魂命)
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。
(2022.06.10訪問)