美風庵だより

風にちる 花のゆくえは 知らねども

糟屋郡新宮町新宮 磯崎神社


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なかなか立派な神社です。

磯崎神社

磯崎神社は磯崎鼻(新宮波止場)に鎮座されていましたが、暴風や怒涛で社殿の破損が心配されるため、村民が筑前藩主へ願いでて、貞享二年(一六八五年)筑前国主松平右衛門佐光之(黒田光之)がこれを許して、現在の地へ移転しました。
波際に高さ一丈(約三m)、長さ二百七十間(約五百m)の石垣を築き、松を植え、その辰巳(東西)にあたる白砂青松の間(現在地)に本社を移し祀りました。この時、石垣の内に漁家を現在の湊字古屋敷より移し、神宮浦と称するようになりました。
元禄十三年(一七〇〇年)五月拝殿を建立し、現在は昭和九年十月(第・十四回遷座祭)に造営されました。
境内には「陰」・「陽」の二個の石(子持ち石)があり、子どもの無い婦人が北にある陽石に腰掛けて祈願すれば、子宝に恵まれると伝えられています。
また、境内の絵馬堂には、古き時代の絵馬と、寛延三年六月(一七五〇年)氏子衆から寄進された狩野昌運の筆になる「三十六歌仙」に公家衆が書いた寄会書の和歌が展示されています。

祭神
大巳貴命
少彦名命
素盞嗚命

なぜこの地を「新宮」というのかについて、他の神社にある案内板では、住吉の神を祀る神社を建てたさい、「新しい住吉大明神社」なので「新宮」としたという記載がありました。

ところがこの磯崎神社の案内板を信じるなら、ずいぶんと話がことなります。

江戸時代に、神社ごと地域が移転して、神社がある浦「神宮浦」を名乗ったのが「新宮」の由来だというのです。

本殿の上に御神紋があるのですが、御幣です。なかなか珍しく、しばし見入ります。

福岡市博多区千代1丁目 千代森神社 - 美風庵だより

 

境内裏手に、千代森神社がありました。博多区千代1丁目にある千代森神社の分社でしょうか。すると画像右側がお稲荷さんで、左側が妙見様ということになります。

社殿正面向かって左側に、宇賀神社・天満宮・南風湊神社が並べて祀られています。

境内北側には、竈門神社(宝満信仰)とえびす様もあります。

鳥居をはさんで両側にあるのが子持ち石らしく、北側のみに「子持ち石」の石碑があるのは「子供が欲しい」という需要のほうが圧倒的に多いからでしょうね……。

注連掛柱かとおもいきや、竹を引っかける穴や出っ張りがありません。

上に載せていたのか、もしかすると鳥居の下だけが残っているのか……。

福岡県神社誌:上巻117頁
[社名(御祭神)]磯崎神社(大己貴命、小彦名命、素盞嗚命)
[社格]村社
[住所]糟屋郡新宮村大字新宮字北口
[由緒]本社縁起に曰く、所崇秘之祠神如上古難以観縷中古霊畤著于茲土在聖武帝登極之初乎何者神亀年間大伴坂上郎女発帥家超宗像郡視斯祠在道畔賦和歌以寄与於二神生石村主真人亦詠之(二首和歌出万葉集)云々。始本祠在磯崎山觜波激石出葺爾巉岩上宜乎以磯先名其祠也云々と有りて上古は磯の岬に鎮座ありしを、貞享二年この地に移転す。暴風怒涛のために社殿を破損することを村民深く畏れ慮り此地に移さんと府治(福岡城なり)へ上願し、且新宮村は古来神宮湊浦と称して今の湊村と合村なりし時、海辺漸次砂吹寄せ漁場隔離事業不便を以て漁家を此の地に移さんと同時に上願せしに、貞享二年筑前国主松平右衛門佐光之、浦経営司貝原善太夫義質大野源太夫貞勝に命じ本社及漁村を移転せしむ、則二吏命を奉じ波際に高さ一丈長さ二百七十間有奇の石壘を築き其辰位にあたる白砂青松間に本社を奉移、又漁家をも湊村より移して本社を以て産神とす、則貞享二年乙丑七月十一日棟札に記せり。其時神宮浦の号を改めて新宮浦と称せりといふ。元禄十三年五月拝殿造立、享保元年本祠及拝殿造立あり、此時浦吏経営司澤木某大塩某両姓なり。筑前守継高参詣し和歌を納む、以後累葉尊崇す、有馬玄番頭(筑後久留米)、黒田甲斐守(筑前秋月)も亦尊信各其敬意を致せり。社地有二個石陰陽石と云ふ、二石相離るる僅に五六間南を力石と称し北を子持石と称す、子なき婦人来りて子を祈るに忽ち娠む故に衆庶の参拝不絶、二石ともに瑞籬を廻らす、霊験の報賽は其の子に磯或は崎の字を名に用いるもの多し、皆云ふ磯崎神徳なりと、此の事文政三年旧福岡藩の命により神社書上帳にも記載せり。素盞嗚命は後来相殿に合祀せしものと古老の口碑に存す。明治五年十一月三日村社に定めらる。
[境内社(御祭神)]南風湊神社(級津彦命、級津姫命、住吉三柱神)、天満宮(菅原道真公)、宇賀神社(稲倉魂命)、恵比須神社(蛭子命)、竃戸神社(奥津彦命、奥津姫命、土祖神)
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。
(2022.06.03訪問)