松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

福岡市東区塩浜1丁目 四社神社


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和白 - Wikipedia

1703年より、黒田藩の資金で和白干潟の北端の干拓が行われ、新たに塩浜村が作られた。その名の通りここでは製塩が行われ「和白塩」として知られた。その後、1852年に大波により堤防が決壊したが幕末に藩士松本平内の尽力により新たな築堤が行われ、製塩は明治末期まで行われていた。製塩が廃れたのちは、砂質の土壌を活かした白葱・玉葱・甘藷などの畑作地となっている。

現在の住居表示「塩浜1丁目」が示すとおり、明治末期までこの地は塩田による製塩が行われていました。

神社からみて沖合の、薄い赤丸のエリアが、塩田があった場所とのこと。

四社神社由緒
御祭神
神功皇后 志賀三神 住吉三神 塩土翁神
御由緒
塩浜の地はむかし塩釜の浦塩焼の浜と称し陸地深くまで海水が押し寄せた島の一部であった 当時の人々は遠浅の海岸を漸次開き田畑となし又塩田とし、海幸豊で平和な生活を営んでいた
ここは筑前屈指の産塩地でありその品質も秀れていたと云う この頃四社宮は鎮座され記録に残るものでは慶安三年神殿一宇屋根葺き替えし産子の繁栄を祈念している 元禄十六年黒田藩主綱政は家臣大野貞勝に命じ地区住民一人も使役せず公銭のみ用い大堤防を築造し塩田三十町歩を聞き塩浜地区を創立した この時大野貞勝四社神社に詣で塩土翁神を歓請合祀し、製塩の発展を祈念した 
嘉永六年再度の大堤防築造起工のとき安全祈願祭四社神社を拝し盛大に執り行われた 明治五年村社に被定

現地の案内板(石碑)を読むかぎり、もとは神功皇后と住吉三神、志賀三神を祀る神社だったのを、江戸時代に塩田開発を行うにあたり塩土翁神を御祭神に加えたことになります。

玉垂宮神秘書では、初代住吉大明神である鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず)の(実子・義理ふくめ)子女5人のうち男3人を住吉三神(安曇磯良:表筒男尊、崇神天皇:中筒男尊、高良玉垂命:底筒男尊)、実子3人を綿津見(少童)三神(安曇磯良と女2名)としています。志賀三神とは綿津見三神のことですので、ここは、鵜葺草葺不合命の関係者が集う神社と考えることができます。

もう少しいえば、安曇族を祀る神社だったともいえそうです。

そうおもって、社殿正面向かって右脇の境内社をながめます。

大きいほうは、龍王宮、えびす様、猿田彦をお祀りしていますが、小さいほうはなんと若宮神社です。現地で福岡県神社誌のPDFファイルを確認すると、この若宮神社の御祭神は仁徳天皇とのこと。

すると、ここはもともと神功皇后と高良玉垂命、そして仁徳天皇を祀っていたのかもしれません。その後、高良玉垂命は住吉三神の底筒男尊とみなされ、やがて住吉三神・志賀三神を祀る安曇族の祭祀に、上書きされたのでしょう。そしてさらに、塩田開発にともない、塩土翁神(博多のお櫛田さん、神皇産霊神、国常立命)とその子 豊玉彦(八大龍王、豊国主、豊前坊、思兼命)が加えられたとみます。

社殿を眺めていて、菊紋はともかく、かえるまたの装飾が気になります。

波を表しているのでしょうか?

福岡県神社誌:上巻115頁
[社名(御祭神)]四社神社(志賀三柱神、住吉三柱神、息長帯姫命、塩土翁神)
[社格]村社
[住所]糟屋郡和白村大字三苫字古川
[由緒]不詳、塩土翁神は元禄十六年大野貞勝塩田開墾のとき祀ると云ふ。明治五年十一月三日村社に被定。
[境内社(御祭神)]恵比須神社(事代主神)、若宮神社(仁徳天皇)、猿田彦神社(猿田彦神)
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。
(2022.05.30訪問)