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岡山県岡山市北区野田屋町2丁目 金刀比羅神社


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金刀比羅神社|岡山県神社検索|岡山県神社庁

由緒
当社は天正年間の創建である。寛政年間に養林寺から出火し、神社に類焼した。昭和20年6月29日に戦災により神社は炎上した。このため古文書、旧記録を焼失したので由緒は不明になった。

岡山県神社庁のホームページではさらりとしか触れられていませんので、次に現地案内板から起こしてみます。

金刀比羅神社

金刀比羅神社は、天正元年(1573年) 宇喜多直家入城による城下町整備に伴ってこの地に創建され、その後岡山城主となった宇喜多秀家が国家安泰の祈願所とした神社といわれ、金比羅大権現として祀られていましたが、明治2年5月に現在の社名に改められました。
金刀比羅神社前は、西からの諸大名が参勤交代に江戸に赴く道筋であり、諸大名や旅人が拝礼し通過していたと伝えられています。
戦災前の建物は本殿、幣殿、拝殿、 渡殿、神馬殿などがあり、末社として稲荷神社、天神社、疫神社、春日神社を擁していました。
昭和20年(1945年) 6月29日未明の岡山大空襲により、付近一帯の市街は焼け野原 となり、金刀比羅神社も多くの焼夷弾を受けて建物は全焼しましたが、狛犬や燈ろう、手水鉢は、焼夷弾により焼けたり、欠けたりしながらもかろうじて残りました。
終戦の翌年には、 本殿及び社務所が再建されたといわれ、狛犬や燈ろう、手水鉢も修復されましたが、残された傷跡がかつての空襲の激しさを今に伝えています。
平成21年3月 岡山市

岡山城 - Wikipedia

直家は北方の山裾にあった西国街道を、城の南に沿うように付け替えて城下に導いた。そして備前福岡、備前西大寺などから商人を呼び寄せ、いわゆる城下町の整備を行うなど積極的に流通主導による経済振興とも言うべき政策をとった。信長が安土城を築城する3年前のことである。これは直家が幼少の頃に、備前福岡の商人に庇護を受けたと言われていることも無縁ではないとみられている。

金刀比羅神社があったので、この一帯の地名が丸亀町となったとのこと。相当な流行りぶりだったようです。

本家の金刀比羅宮は、大物主(私は大山咋と同一視しています)を祀っていることになっていますが、ここでは大己貴(大国主)が祭神です。大物主を大国主の別名とする話もありますので、それに拠ったのでしょう。

境内社は画像手前からお稲荷さん、春日神社、天満宮となっており、案内板にある疫神社が見当たりませんでしたが、私が見落としたのかもしれません。

(2022.05.22訪問)