松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

広島県広島市中区中島町 天満神社


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天満神社縁起

安芸国広島市天神町鎮座天満宮は祭神菅原道真公の神霊に座す
旧記喪失の為勧請の年月詳ならずといえども伝え言う往古延喜年間菅公筑紫へ御左遷の砌
当国高田郡吉田の里へ御滞在被遊種々の霊験を残し賜りしかば里人敬慕奉りて御神霊を齋ぎ奉りし
此の地を天神山と称し今に其の名残れり斯くて諸人の崇敬浅からざりしが元亀年間毛利元就卿当地へ在城の頃御社殿御造営国家鎮護萬民安全の鎮護と崇敬浅からざりき
天正年間輝元卿当広島へ築城入城後現在の地を卜し御社殿造営竣工の後吉田より御遷座に相成たり
当時毛利家より社領三百余石及び社地方七十間を寄付せられ当町内一円を境内に付け置かる毎年正・五・九月の三度御祭事ありて崇敬倍に深かりき元此の地を舟町と称えしも後天神町と改称す
斯くて慶長年間毛利家当国退転せられ福島氏代りて国主となるに及び社領及び社地の大部分を没収せられ社頭暫く衰えたり
元和五年福島氏に代わりて浅野長晟卿御入国の際水主町へ御着船当社へ小憩の後御入城遊ばされたり
当時神仏混淆にして天神坊別頭職たり従先是周防の人寿仙と伝える真言宗の僧あり連歌に堪能なりければいよいよ国主に召され寵愛浅きからざりき後寿山天神坊の住持仰付けらる然るに長晟卿は頗る連歌を好ませられければ元和七年正月連歌百韻を奉納せらる其れより毎年正月御連歌初の節は長晟卿光晟卿御社参相成時には社頭に於いて御催しありし之れ等に依り当社御崇敬も浅からず連歌料御社米等若干御寄付相成しも寿仙之廉潔の僧なりしかば辞退して受けざりき
長晟卿御入国より歴代正五九月には御代拝差立てられ永代御祈願所と定められたり
寛永八年十一月二十五日御社殿新に御造営せらる明暦元年九月朔日御造営あり元禄五年二月二十四日御造営あり然るに享保十三年三月二十七日類焼の厄に遭い御社殿並神器宝物等悉く皆烏有に帰す寛延二年九月御造営の工を起こされ翌寛延三年六月十五日工を竣う然るに寛政七年卯四月五日御社殿又々回禄に罹りたるを以て同年九月仮殿御造営降って文化九年十一月二十七日御再営の工を起こされ翌十年五月十八日工を竣たるもの現在の社殿なり
従来御社殿並びに神器破損の場合は浅野家より御修覆相成りしが明治三年二月二十五日より御神供米二石を寄付せられ修覆の義は廃止せられたり其の後明治五年に至り御供米の寄付をも廃止せられたり
別頭職は天神坊と称せしが明暦年間鶴翁山吉祥寺と改称し其の後天和貞享の頃より天満院と改たむ
明治二年八月神仏混淆を禁ぜられるに当たり寺院を分離し明治五年十一月空鞘神社摂社と定めらる
明治三十六年三月二十二日より六日間にわたり盛大に菅公一千年祭が挙行され御輿小町白神社御旅所に渡御還御あり
(明治四十二年編)
昭和二十年八月六日米国により投下されし原子爆弾により社殿等悉く焼失し現在に至る

天満神社(旧天神町)

御祭神
菅原道真大神
御由緒
天満神社は、毛利輝元卿が広島に城を築き高田郡吉田町から入府(にゅうふ)した時、吉田の天神山(てんじんやま)からこの地に遷(うつ)して奉斎(ほうさい)したのが始まりである。当初この地は、「舟町」と称していたがこれにより「天神町」と改めた。
その後、広島城主も福島正則を経て浅野家と変わるが、浅野長晟卿が広島城に入城の際船を水主町(かこまち。現加古町)に着け、天満神社に入り暫(しばら)く休憩の後入城した。
この因縁からか浅野家の当神社に対する崇敬(すうけい)は大変厚いものがあり、正月、五月、九月には当神社に参拝され様々な行事・宝物の奉納がなされた。元和七年(西洋暦一六二一年)連歌百韻を奉納している。また、寛永八年(西洋暦一六三一年)社殿を造営したが、享保十三年火災に罹(かか)り、寛延三年(西洋暦一七五〇年)再建、寛政七年(西洋暦一七九五年)再び焼失し文化九年(西洋暦一八一二年)再建した。
明治に入り浅野家との関係は絶たれたが、広島の発展とともに広島市の中心に位置する「天満神社」の社頭(しゃとう)の繁栄は目を見張るものがあった。繁華街の真ん中で「天神町の天神さん」と呼んで親しまれていた。
祭礼は、とても賑やかで「学問の神様」、「書道の神様」として大変に持てはやされていた。
空鞘稲生神社(そらさやいなおじんじゃ)の氏子区域内にある崇敬神社で、空鞘稲生神社(広島市中区本川町-旧空鞘町鎮座)の境外摂社(けいがいせっしゃ)である。
昭和二〇年八月六日に爆心地より三〇〇メートルという至近距離で被爆した当神社は、注連柱(しめばしら)、狛犬等の石造物が若干残った中で幸いにも疎開していた御神体(ごしんたい。木像)を残し全てが灰燼(かいじん)に帰した。
様々な事情で復興が叶わぬまま時を過ごしてしてきたが、去る平成六年六月ようやく小祠(しょうし)を建立(こんりゅう)し、由緒ある「天神町の天神さん」の復興の一歩を踏み出したところである。

(2022.05.02訪問)