松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

佐賀県佐賀市白山1丁目 楠神社


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楠神社 - さがの歴史・文化お宝帳

安政3年(1856)、佐賀藩執政鍋島安房が楠公像を遷し、八幡神社の境内に尊像を祀り、「楠社大祭」を執行した。これが現在の楠神社のはじまりである。
奥の神殿には、楠正成、正行(まさつら)の父子像が御神体として祀ってある。
毎年、5月25日に例祭が行なわれ、昭和10年には大楠公六百年祭が盛大に営まれ今日に至る。

龍造寺八幡宮 - Wikipedia

楠神社

祭神:楠木正成之命、楠木正行之命

社伝によると、寛文3年(1663年)に佐賀藩士により京都の仏師法橋宗而に依頼し楠公父子像が制作され、佐賀市大和町の永明寺に小堂を建て祀ったのが佐賀楠公奉祀の始まりであり、日本で最初に楠公父子(楠木正成、楠木正行)を祀ったとする所以である。嘉永3年(1850年)に結成された楠公義祭同盟の働きかけにより、1853年に八幡宮境内に楠社を創建し移祀された。歴代藩主公認のもと慰霊、祭祀が行われていた。1880年(明治13年)まで義祭同盟により、毎年5月25日に義祭が行われていた。 

本邦創祀ってえらく威勢がいいなとおもって考えてみると、湊川神社の創建は1872年(明治5年)なので、たしかに「神社」だったらそうなのかもしれません。

湊川神社 - Wikipedia

楠木正成は、延元元年(1336年)5月25日、湊川の地で足利尊氏と戦い殉節した(湊川の戦い)。寛永20年(1643年)に尼崎藩主となった青山幸利は、領内に正成の戦死の地を比定し供養塔を立てた。幸利の自ら定めた墓所もこの周辺に存在する。元禄5年(1692年)になり徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」と記した石碑を建立した。

ただ、神社という体裁にこだわらなければ、それ以前から祭祀は行われていたようです。

拝殿内には「桜井の別れ」の様子が人形になっていました。

桜井の別れ - Wikipedia

建武3年5月(1336年6月)、九州で劣勢を挽回して山陽道を怒濤の如く東上してきた足利尊氏の数十万の軍勢に対し、その20分の1ほどの軍勢しか持たない朝廷方は上を下への大騒ぎとなった。新田義貞を総大将とする朝廷方は兵庫に陣を敷いていたが、正成は義貞の器量を疑い、今の状況で尊氏方の軍勢を迎撃することは困難なので、尊氏と和睦するか、またはいったん都を捨てて比叡山に上り、空になった都に足利軍を誘い込んだ後、これを兵糧攻めにするべきだと後醍醐帝に進言したが、いずれも聞き入れられなかった。そこで正成は死を覚悟し、湊川の戦場に赴くことになった。
その途中、桜井駅にさしかかった頃、正成は数え11歳の嫡子・正行を呼び寄せて「お前を故郷の河内へ帰す」と告げた。「最期まで父上と共に」と懇願する正行に対し、正成は「お前を帰すのは、自分が討死にしたあとのことを考えてのことだ。帝のために、お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族郎党一人でも生き残るようにして、いつの日か必ず朝敵を滅せ」と諭し、形見にかつて帝より下賜された菊水の紋が入った短刀を授け、今生の別れを告げた。

むかし吉川英治さんの「私本太平記 湊川帖」の「桜井の宿」を読んで、泣けた部分です。有名な場面だったんですね(すみません。あとで知りました)。

該当部分を青空文庫から引用してみます。

「よく来たのう、正行。……それはうれしい。だが、連れては行かれん。そなたは明朝、河内へ帰れ」
「えっ。――帰らねばなりませんか」
正行は、父の腕に絡んだ。
しがみついて。
「なぜです。なぜ正行は、お父上の戦について行っては」
「いけない」
「ど、どうしてです」
「河内を立つ朝、よく言っておいたはず」
「でも、こんどは、お父上も生きては還るまい御戦。死を決めての御出陣だと聞きました」
「たれから」
「叔父ぎみが。また母ぎみもそのようなお覚悟のご容子です。おなじ初陣なら、お父上と一つ陣で。おなじ死ぬなら、お父上と共に死にとうございます」
正行は、泣きもしていなかった。
この少年には、死がどういうものであるか、死がわかるほど、生もわかっていなかった。それだけに多感で純白な心は、父母の姿やら周囲の悲壮な戦の門出にその激血をつきつめられているのらしい。生き物の哀しさを、正成はこの子に見ずにいられなかった。
「よしよし、よく言った……」
思いのほか、父の言がこう優しかったので、正行は、甘え心が出て、どっと、いっぺんに涙をこぼした。両手で顔をおおったとおもうと、声をもらしてしゃくりあげた。
「さむらいの子、そうなくてはならぬところ、健気さはうれしいぞ。したが、正行よ。死ぬだけがもののふの道ではない。いや、もののふが一番に大事とせねばならぬのは、二つとない生命だ。いかなる道を世に志そうと、いのちを持たで出来ようか。されば、さむらいの、もっとも恥は犬死ということだ。次には、死に下手というものか。とまれ人と生れたからには、享けた一命をその人がどう生涯につかいきるか、それでその人の値うちもきまる」
「…………」
「そなたはまだ浅春の蕾だ。春さえ知ってない。夏も秋も冬も知っていない。人の一生にはたくさんなことができる。誓えばどんな希望でもかけられる。父と共に死ぬなどは、そのときだけのみずからの満足にすぎん。世の中もまた定まったものではない。易学のいうように、時々刻々、かわって行く。ゆえにどんな眼前の悪状態にも、絶望するにはあたらぬ」
「…………」
「それなのに、父は死のたたかいに行く。行かねばならぬ。これは父がいたらぬからだ。みかどの御為とは申しながら、かくならぬ前に、もっとよい忠誠の道を、ほかにさがして、力をつくすべきであった。いや心はくだいたが、この父にそこまでの能がなく、ついにみずからをも窮地に終らすほかない今日とはなったのだ。……そのような正成に、若木のそちを共につれてゆくことはできぬ。そなたは正成のようなおろかしい道を践むな」
「…………」
「まず、あと淋しかろう母に成人を見せてやれ。この後は、ふるさとの河内一領を保ちえたら、それを以て、僥せとし、めったに無益な兵馬をうごかすでないぞ。ただ自分を作れ、自分を養え。そして一個の大人となったあかつきには、自然そなたとしての志も分別もついて来よう。その上は、そなた自身の一生だ。身の一命を、いかにつかうかも、そのときに悔いなき思慮をいたすがよい」
「…………」
「わかったか、正行」
「…………」
「わからぬのか」
「…………」
「これほど、理をわけて父が申すのに、なお得心がつかぬとは、そなたもほどの知れたやつ、頼もしからぬ子ではある」
「…………」
正行は顔を上げたが、何もいえなかった。父から頼もしくないといわれたのが一途に悲しそうで、ただ、けいれんする唇へ涙を吸っていた。それが、まだ三ツ四ツ頃の、あどけない泣き顔そッくりに親には見えた。
いまは親の身にとっても、心を鬼にして叱ッて帰すのが、絆を断つに、いちばんやさしいこととは思う。
正成も知らないではない。しかし今生これきりと知る生別を本心でもない偽りの怒面で子を追いやるには忍びなかった。

吉川英治「私本太平記 湊川帖」

https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52432_49713.html

どうでしょうか。泣けますね……。

(2022.04.27訪問)