松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

10月23日の日録

ありがたみのないおかね。

10月21日の日録 - 美風庵だより

10月22日の日録 - 美風庵だより

父親の説得を依頼したAさんから連絡があり、福岡市内で会いました。

甘木まで来たいとのことでしたが、まさかロボット掃除機の邪魔にならないようじゅうたんすら畳んだ貧乏小屋にご案内するするわけにもいかず、こちらから福岡市内に出ました。

どうやらあのあと、お父さんは自分で不動産屋さんに行ったり、大学や会社の後輩に連絡をとったりして、事態を把握したようです。実印と印鑑登録証をAさんに投げてよこし、「おまえの好きにせれ」と白旗をあげたとのこと。

齢は80過ぎているといっても、国立大卒で地元では名の知れた会社の部長や監査役までやった、良くも悪しくも中途半端にプライドが高いインテリ層です。ボロを出したら突っ込まれて言い負ける可能性があり、親のかたきとおもってねじ伏せるつもりで準備して同席し、結果、怒鳴りあい・わめきあいになってしまった(笑)わけですが、どうも後味がよくありません。

逆に、Aさんがニコニコしながら「母親が死んだときでもあんな泣きそうな顔してませんでした」と淡々と説明するのをみて、こいつ息子のくせに親の無念が理解できないのだろうか?それとも目の前で表情をつくっているのか?と疑念をいだきます。

おそらくこの騒動がなければ「おれはいい財産を子孫に残せた」とやすらかにお亡くなりだったはずです。いよいよ人生のどん詰まりになって「あなたが借金払い続けた土地は、10分の1以下に暴落してます、努力が水の泡でしたね(ぷぷぷ」では、浮かばれません。

ここ最近、まともな食事は昼食のみで、朝晩は棒ラーメンという極貧生活でした。背に腹はかえられず、謝礼はありがたくいただきましたが、これ、つかったら死んだあと化けてでてくるんじゃないか、ともおもってしまいます。

他人に関わらなければ生きてはいけず、それはまた、この世という苦界に身を沈めることでもあるわけで、人間とはつくづく因果なものです。

良かれとおもってやったことも、もうかたほうの当事者は嫁の死に場でも見せなかった顔して、息子に実印放り投げて部屋に引きこもってしまうという現実。これ幸いと実印とりあげてせっせと交渉をはじめた息子もどうかとおもうし、気乗りしなくても謝礼につい手が出てしまい「これで明日は牛タン定食が食える(/・ω・)/やっほ~!」とかんがえてしまう我が身の落ちぶれぶり。

どうも貧すれば鈍ずるを地でいってます。

人間としてこれではいけません。まったく清くも正しくも美しくもありません。

金曜も今日も。

九州のりものinfo.com 鉄道(JR九州・西鉄・地下鉄・JR西日本・ほか)、バス、旅客船・フェリー、航空の運行情報サイト

九州運輸局がやっている運行情報の通知メールに登録しているのですが、ここ最近、人身事故のお知らせがよく目につきます。金曜日も人身事故でJR鹿児島本線止まってました(報道では20代の女性らしい)。

助けるだけの財力も知力も能力もないのに安易に他人をおもんばかるのはむしろ重罪なので、わたしがとやかく言うことではありませんが、泣くひとがいなければいいなとはおもいます(-人-)

今日の運動経路

謝礼をいただいたあと、せっかくなので「神社めぐり」をしました。

今回は「早良体育館前」バス停からスタートです。早良体育館の横にはむかし西鉄バスの四箇田(しかた)営業所がありました。現在は、解体前の廃車置場になっており、バスマニアは定期的にここに偵察に来て、運用離脱状況を確認しているそうです。

飯盛山がみえます。

飯盛神社 (福岡市) - Wikipedia

「飯盛山」の東側の平野部の「高木、吉武地区」には「弥生時代」の「甕棺墓群」と「倉庫建築の柱跡」が発見された「吉武高木遺跡」がある。いわゆる「三種の神器」がセットとして副葬されていたもっとも古い時代の墓が発見された場所である。

いずれ訪問しないといけないのですが、あそこは登山服が必要で、涼しいどころか寒くなってからでないと、行けません。

今回は、高台にある新興住宅地「室見が丘」まで登る予定です。

1社目の「警固神社」がみえてきました。

警固神社というと、天神のど真ん中の警固神社ばかりが有名ですが、市内に3社あります。平安時代に警固所という太宰府防衛の拠点が設置されるのですが、そこの兵隊さんに食わせる米をつくる田んぼ(警固田)が在ったことが由来とされます。

警固神社の横に薬師堂があり、そちらの写真も撮影したかったのですが、近所のかたが自転車を停めてなにかの雑誌?を読みながら寝転がって休憩されていたので、神社の社殿しか撮影できていません。

2社目の老松宮は、もとは老松天神社と言い、太宰府から勧請した菅公を祀る神社とのこと。

菅公は追っ手を巻くため、太宰府に直接はいらず各地を逃げ回ったという伝承があります。

3社目、この天神社には菅公が休憩した場所という伝承があるのですが、福岡県神社誌の御祭神は「埴安姫」で、どうもなにかが混濁しているようです。

4社目は、福岡市西区金武の天神社です。福岡県神社誌では御祭神が「天神」とあり、誰か比定することすら放棄されています。

大雨で地滑りを起こし復旧工事を行ったことが記されています。本殿の土台も新しく、災害復旧のときに、手をくわえられたのかもしれません。

今回、金武という地区にはじめて足を踏み入れたのですが、ふるい屋敷がおおく、そして庭の屋敷神も立派です。

坂道を登るのがつらいので、いったん「金武中学校」バス停まで引き返し、高台の新興住宅地「室見が丘」まで、バス移動することにしました。バス停で時刻を確認すると、どうやら予定していたバスはもう通過しており、10分後の便しかありません。訪問する神社の順番が予定と逆になりましたが、しかたがありません。

坂道を登りたくないので「南金武」バス停まで、バス停3つぶん移動します。

5社目は、五十猛神社です。

福岡県神社誌では「五十猛神社」となっていますが、現地の扁額は「妙見宮」です。

社殿に、過去の歴史をしらべた資料が備え付けられており、それを拝読すると、室町時代の史料には「妙見大菩薩」とあるとのこと。そして江戸時代の史料には「妙見宮または五十猛神社」と併記されるようになったとあり、もとは妙見宮だったが、あとから五十猛も祀られたことがわかります。

正式に五十猛神社となったのは、昭和15年に福岡県神社誌の編纂がはじまったさい、五十猛神社で届け出て以降と明記されており、登載にあたり社号の整理を求められたようです。

福岡タワーをはるか遠くにのぞむことが出来ます。都心部がこれだけよく見えるということは、そこそこ標高がないといけません。この日記を書くにあたり確認すると、ちょうど標高55mの地点でした。

最後に訪問した保食神社は、たぶんつかわれていないであろう石段と鳥居には近づかず、車道から登りました。

大きい建物が保食神社で、正面向かって右側が淡島神社(淡島大明神)です。

494 無格社 淡島神社 早良郡入部村大字西入部字十ヶ坪
495 無格社 保食神社 早良郡入部村大字西入部字浦江

福岡県神社誌では小字が違いますが、おそらく、ここにまとめられたものとおもわれます。

蜘蛛の巣がいっぱいで登るのをあきらめた石段を、上から見下ろします。

西入部5丁目」バス停から路線バスに乗り、博多駅まで戻りました。

おおよそ6km、2時間かけて歩きました。

福岡市内のどのあたりか、より広域で示すとこうなります。三種の神器が出土した遺跡や、「筑紫の日向とはここだ」と古代史マニアが主張する日向峠(ひなたとうげ)があり、だんだん歴史のロマン探訪っぽくなってきました。