松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

福津市在自 お夏大明神


大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )

f:id:bifum:20220415101719j:plain
f:id:bifum:20220415101749j:plain

江戸時代の義民「お夏」を祀るお宮です。御神体はまるい石で、もしかするとこれじたいが墓かもしれません。

f:id:bifum:20220415101847j:plain

義民「お夏」の由来

打ち続いた凶作は遂に天明の大飢饉を招いた。
にもかわらず、各地には厳重な検見が行われ情容赦もない年貢の上納に迫られて、百姓たちは塗炭の苦しみにあえいだ。
天明三年の秋深く、荒地の郷の下の原には検見場が設けられて、お夏は箕簸捌べ(みひさべ)の大役に選ばれていた。お夏は器用な娘で、女の道は勿論農耕の仕事まで男も及ばぬほど達者であった。
居並ぶ役人の目の前で、怯めず憶せず一心不乱にみごとな箕簸捌べをするお夏の顔にみなぎる異常な決心これを見守る百姓たち近郷近在の村のいのちが賭けられていたのである。
お夏の箕簸捌べは、意外に少い収穫だったので検見役の怒りを買い、お夏は打首の仕置きを受けた。しかしお夏の義侠は、藩主黒田候の心をうごかし、上納米を免ぜられた村人たちは、お夏の義烈を慕って「お夏大明神」として祀った。

幾千代に希望ある身の幸捨て、むらびとすくうなつの箕簸とり

堂字の、お夏の石祠には、「寛政四年建之」と刻まれている。
うら若い身を犠牲にして、農民の難儀を救ったお夏の御霊は、貴船山の丘から昭和三十年三月此処に遷され、村の護りと鎮って此の郷の永久の繁栄を見守っているが、村人たちは此の地を「偲ヶ丘」と名付けて、其の義烈を偲んでいる。

f:id:bifum:20220415211953p:plain

簸捌(ひさべ)という言葉の意味がわからず、iphoneで「精選版日本国語大辞典」を検索すると、米と籾殻やくずを分けることを言うようです。

2008年5月24日/〈津屋崎まちなみ散策〉020・〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉31 - 吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

手箕(てみい=穀類をあおってふるい、殻・ごみを除く農具)で穀類と屑とを選別する「箕簸捌(みひさ)べ」の大役を自ら願い出ました。村人を救う一心で、箕を振り上げて籾の中にある実まで飛ぶような手加減をし、不作を立証しようとしましたが、役人に見つかり、処刑されました。

天明3年(1783年)、この在自の村も凶作に見舞われたのでしょう。年貢の検見(作柄調査)で、お夏の行為は役人の怒りをかい、打ち首となります。

御神体は寛政4年(1792年)とあり、事件とは10年近いひらきがあります。おそらく、このあいだに罪をゆるされ、祭祀が可能になったのだとおもわれます。

f:id:bifum:20220415101832j:plain

お宮の真向かいに、一生懸命箕を振るお夏を描いた絵が奉納されていました。

福岡県神社誌:記載なし(発見できず?)
[社名(御祭神)]?
[社格]?
[住所]?
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2022.04.15訪問)