松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

10月5日の日録

読み物か、科学か?

書店やインターネットでよく「金持ちになる秘訣」とか「貧乏人で終わる人の特徴」についてとりあげた本(サイト)をよくみかけます。

読むぶんには面白いのでながめはしますが、あくまでも人生訓の読み物の域をでないもので、行動指標として再現性がどのくらいあるか、疑わしいとおもっています。

商売柄、「修理に出すべきかどうか、パソコンを見てくれ」と呼びつけられることがおおいのですが、ひごろの姿からは想像できない資産をお持ちのかたと、ひごろ羽振りよさそうなのに意外と「おれのほうが持ってない?」というかたが居ます。どうしても家に上がってパソコンをひらいて1時間も格闘すれば、入っているアプリの傾向とか、(見たくなくても目にはいる)メーラーに溜まっているメールの題名や差出人、聞こえてくる家族の会話などで、どういう状況かはある程度察することができますし、薄々資力の傾向もわかるものです。

自己啓発書もいろいろあろうかとおもいますが、それこそむかし大流行した加藤諦三から投資家の金言明言をあつめたものまで、ずらりと書棚にあるから資産があるかというと、そうとも言い切れない。

そういう意味では、その位置(立場)にいるのは、そのひとが身につけた嗅覚・知力・体力・人格・運が招いた結果であって、参考書は参考でしかない、ということができます。

ただ、こちらは前述ほど断言できませんが「子(and子の配偶者)も立派かどうか」になると、話はかわってきます。やはり専門書でも自己啓発書でも新聞でもニュースでもしっかり読んでいる形跡があるひとほど、あきらかに子(と、子が選択した配偶者)に習性が伝播・感染していることが多い。まともである確率が高い。

端的にいえば、テレビの垂れ流しをまにうけない親(意識してテレビを生活から遠ざけている親)からは、まともな人間が育つ可能性は高い。一日中テレビつけっぱなしというのは、最悪。

中卒たたき上げで、敬礼しても90度以上アタマが下がらないのが申し訳ないようなかたがむかしおられました(お声掛けいただいたら心のなかで土下座していました)。そこのお孫さん「事務所のパソコン見てくれ電気がはいらん」と、誰からきいたのか私の携帯に夜22時に電話してきました。

おじいさまに世話になったこともあって、朝8時に顔を出してしばらく格闘し「基盤の部品交換なので店に持って行ってください」といったら、「はー、つかえんなーおまえ(ちなみに私のほうが齢は上です)」と面と向かって言います。ちなみにこの孫、お父さん寸前で業績右肩下がりですが、いちおう「まだ」地元名士の範疇にはいっています(こいつの代で会社は終わるでしょうけど)。

一代で終わるか、何代も繁栄を維持できるか。その境目はどこかときかれたら、教育だろうとおもいます。いい学校に行くとかそういうものではなく、親から子へ、子が孫へ伝える人生の感覚というか、世渡りのしかたというか、そういうものです。そのなかに人生訓であったり自己啓発だったりも必要だろうとおもうのですが、じゃあそういうのだけでえらくなるか?というと、どうも違います。

少なくとも言葉にできない(言葉にしていない・言葉にならない)なにかがあるのはあきらかです。その「空気」を伝えることに成功するか、ダメだったか。ここが境目ではないか?そうかんがえています(いくら祖父が賢人でも、前述の孫は、ダメなほうですね)。

これ以上的確に表現できないのは、私の知力の限界です。

youtu.be

塩化ナトリウム(食塩:NaCl)そのものは科学的に合成できます。

このyoutubeのように、誰が追試験やっても同じように望む結果を得られるはずで、そのレベルの再現性があれば「科学」なのでしょうが、その域に達した名言金言人生訓って、まだお目にかかったことは、ありません。

「そういう思考をするから資産家になれたのか」

「資産家になったからそういう思考を身につけたのか」

どっちが正解か、実験心理学で誰かやってくれないかとおもうのですが、さすがにそういう実験を聞いたことがありません。顕著な結果が出たらぜったい世間に流布するはずなので、実験に成功した学者がいないか、サンプルがとれるほど対象者がいないのでしょう。

 

と、ここまで書いて気づいたのですが、昨今、電子書籍大流行りです。たまたま電車・バス利用になってから、車内の日当たりの関係で紙の本に戻りましたが、電子書籍は、子が簡単に手に取って読めません。

小学校のころ雨の日は、小学校から払い下げのリード・オルガンで遊ぶか、傷物で安くひきとった百科事典を読むのが常でした。電子版は、端末にはいっており、たいてい端末はロックされていますから、子供が引っ張り出して読めません。これ、知力獲得のさまたげになるのでは?という気もします。まぁ、google先生にぜんぶ訊け!という時代なのかもしれませんが。google先生だけでものをかんがえられるかは、違うような気が……。

読書。

いくらこちらがあせっても頭を下げに行く相手のつごうがありますから、今日は家でずっと読書をしております。

Amazon.co.jp: 老人支配国家 日本の危機 (文春新書) eBook : エマニュエル・トッド: 本

さて近年、さまざまな社からエマニュエル・トッド著の新書類が刊行されているのだが、いくら売れるからといって、同じ主張の焼き直しで「一丁上がり」の安直な代物を連発するのはいかがなものか

このクチコミがいちばん的確です。笑えるほど的確です。

ただ、こういう社会科学の系統に属する(トッドさんは人口統計学者ですが)の本というのは、自分の考えるスキームを現実に適用して分析可能かどうか、じゃあ分析結果からどう今後を判断・予測するかの繰り返しなので、きほん、旧著のつねに焼き直しになるのが当たり前です。素材がちがえば新味もあろうが素材はほぼ同じなのだから、大筋がいっしょでなかったら、評論家や文筆家のたぐいと同列になってしまいます。

だからこのコメントはまったくもってそのとおりなのだけれど、このクチコミを書いたひとって、学者という仕事をどう考えているのだろう?とおもうのもたしか。

伊福部昭の宇宙

「批評する人は、桜もよし、梅もよしというふうに言えるけれど、作家というのは梅であるか桜であるか、タンポポであるかしかないんです。春先に咲いて、子供が集まってきて喜んでくれる時もあるが、その一時季が過ぎると、もう雑草のように踏まれて育つ。でも、タンポポはタンポポよりほかに変わりようがありません。作家も同じだと思います。

いまは取り壊された天神コアの紀伊國屋書店でちょうど30年前に買った「伊福部昭の宇宙」に掲載された、伊福部昭さんの発言の一部です。学者も同じです。