松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

久留米市諏訪野町 諏訪神社


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国道3号線に面して、一の鳥居があります。

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ここは「久留米第二の古社」なのだそうです。

久留米市日吉町 日吉神社 - 美風庵だより

この場合の第一の古社とは、どこなのでしょう?高良大社?それとも日吉町の日吉神社でしょうか?

高良大社(高良玉垂宮)のある場所は、府中とか御井町といい、1943年に編入されるまで久留米とはべつの町でした。そう考えると、日吉神社を一の古社としているのかもしれません。

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御社号

諏訪神社(往古大神社

御祭神

大巳貴命(大和国では三輪大神、旧三輪大社出雲国では大国主命出雲大社)
建御名方命(大国主命の御子長野県では諏訪大社長崎県ではお諏訪さん)

御創建

年代は不詳だが奈良朝末から平安初期頃(一千三百年から一千四五十年前)には既に宮立があったでせう。天慶年間一千三十年前の筑後の国神名帖には国内神社の戸籍簿にも当る祭神大巳貴命建御名方命とあり大神社とあります。御社号を諏訪神社と申すに至った神名帖記載の御祭神に建御名方命があり此の神が諏訪大明神として広き天下に奉斎されることになったから大神社を諏訪神社と御社号も変わったのでしょう。
戦国の代大友、龍造寺両氏交戦の砌社殿は兵火に罹り社殿の復興は出来なかったが祭祀は続けられ降って徳川の初期西野中村の住民挙って御由緒尊いお宮の荒廃をかなしみ社殿を西面にして現在の位置に遷したのです。
天保五年神殿拝殿が改築されたのが現在の社殿であります。
神域の南方数十年間の正面約六町歩の地域を「諏訪の前」と字名を云ふのは諏訪神社御前の地域と云ふ処に起因することは明の白であります。
御境内に老杉は在ったが世人は「諏訪の一本杉」と云い国府(国分)又お諏訪様所在の目印となったと伝へています。

国内神名帳 筑後国内神名帳

大神社
 諏訪神社
 福岡県久留米市諏訪野町14-7

ふるいのは間違いありませんが、大神=大三輪(おおみわ)社だったということは、大己貴(大国主)を祀る神社だったようなのです。おそらく建御名方神や大物主(大山咋)といったファミリーを祀る神社として認知され、そのなかから諏訪神社として生き残ったのでしょう。

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訪問したさい、ちょうど宮司さんが通りかかられました。「ようこそいらっしゃいました」とわざわざ立ち止まり、挨拶をされます。大きく格式が高いと自任するところほど、巫女さん達ですら頭下げませんから、おもわず小銭入れの口がゆるみます。

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この神社を訪問して気づくのは、正面向かって右にお稲荷さんが3社並んでいる点です。朝知加神社・源九郎稲荷・伏見稲荷と並んでおり、むしろこちらがメインなのじゃないかと錯覚するほどです。

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正面向かって左側にも、新玉稲荷さんが鎮座しています。ぐるりと社殿をお稲荷さんが取り囲んでいるわけで、ほんとうに本殿は大国主や建御名方神なのだろうか?と考えてしまいます。

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新玉稲荷さんの横に、正面にむかって若宮社・水天宮ともう1社石祠があります。

これらは、もしかすると町内から移設されてきたものかもしれません。

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細い里道をはさんで反対側に、神仏の並ぶお堂があります。「立ち入り禁止の聖域」とのこと。

田川郡添田町中元寺 諏訪神社 - 美風庵だより

最初からここは諏訪神社だったのではなく、大己貴(大国主)とそのファミリーによる国造り(開拓)の痕跡だったのかもしれません。お稲荷さん(豊受大神、天細女:あめのうずめ)は、大己貴からみれば姉の子です。

九州王朝最後の天皇であった玉垂命(開化天皇)を祀る高良玉垂宮よりも、元の祭祀は古かった可能性はあります。

福岡県神社誌:下巻419頁
[社名(御祭神)]諏訪神社(武御名方主神)
[社格]無格社
[住所]久留米市諏訪野町大字屋敷
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2022.03.06訪問)