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境内にずらりと、公民館のほか、神社・お宮・祠が9か所まとめられています。なかなか壮観です。
ここはもともと、唐津街道箱崎宿の御茶屋(上流階級専用宿舎・旅館・ホテル)があった場所のようです。
網屋天神
境内には、網屋天満宮のほか、聖観音(焼けずの観音)、恵比須神社、鯨の霊を弔う「鯨之標」、大師堂などがあります。正月3日と7月15日の恵比須祭、7月23日、24日の人形飾りがここで行われています。また、市指定文化財である「銅造誕生釈迦仏立像」(奈良時代)があり、人形飾りの時に公開されています。
箱崎人形飾り
人形飾りは、7月23日、24日のお地蔵様の縁日に行われます。我が子や孫の健やかな成長を願って、家の玄関先に博多人形の捻り人形やお地蔵様の石を飾って箱庭を作り、子どもたちが線香を持って地蔵堂や各家庭の人形飾りをまわります。
戦前までは箱崎の町全体で行われていましたが、網屋町周辺でわずかにその面影を残すのみとなっていました。平成8年(1996年)から、ここ網屋天神の境内に人形を集め、この場を核として人形飾りを開催しています。
地蔵祭りは、今から600年以上も前、多々良浜の合戦(足利尊氏と菊池武敏の戦い)での戦没者を弔うために始まったとされています。また、網屋町(箱崎の漁師町)では、戦没者や漁における遭難者の霊の供養とともに、お地蔵様が子どもの守り神であるため、我が子や孫の無病息災を祈願した祭りと考えられています。福岡市東区役所/箱崎校区自治協議会
鳥居から入ってすぐ左手には「竜宮神社」。
その次は、恵比須神社。
恵比須神社
箱崎浦漁民の守護神として信仰を集めており、網屋天神境内において恵比須祭が行われています。毎年正月3日には、漁業組合員が総出で早朝から集まり、大漁、安全祈願、福の神として「三日恵比須祭」が行われます。7月15日には、箱崎浦の漁師の祭りとして恵比須祭が盛大に行われ、大絵灯籠が網屋各町の通りに飾りつけられていましたが、昭和40年(1965年)代より道路の舗装等で飾り付けが困難となり、各町の大絵灯籠は筥崎宮に寄進されました。現在恵比須神社に残る大絵灯籠は、福岡市漁業協同組合箱崎支所の協力により、人形飾りの日(7月23日、24日)に飾りつけられています。
福岡市東区役所/箱崎校区自治協議会
次が、メインとなる「天満宮」です。
網屋天満宮
この天満宮は、享保10年(1725年)頃管原道真公をお祀りし浦人の守護神として代々祭礼を継承し、弘化3年(1846年)に新たに天神社殿を建立し天満宮として祀り、信仰を集めてきました。従来は、境内中央に東向きに社殿がありましたが、昭和29年(1954年)4月、東北側の現在地に南向きに移転、改築建立して、今日に至っています。
福岡市東区役所/箱崎校区自治協議会
正面向かって右脇に「改築記念碑」があり、そちらのほうが由来を詳しく記しています。
網屋天神社改築紀念碑
箱崎浦網屋天神社境内はもと黒田藩主がこの地の御茶屋に成らせられた度ごとに膳部の調理を整えて進めた處で古く漁師の祖ともいうべき西川某氏が居住していた屋敷であった
享保十年頃屋敷内に網屋佐助弥助等外浦人の話合いで菅原道真公をお祭りし浦人の守護神として代々祭祀を継承していたものであるがそれより百十一年目の弘化三年には新に天神社々殿を建築し更に石鳥居を設けて昭和の時代に及んだのである 弘化三年より今日まで百八年の歳月を経更に鎮祭の当初に遡れば実に二百十一年の春秋を重ねている
大東亜戦争終結の後昭和二十年十二月二十八日国内諸制の改革に伴って新な神社法により網屋町崇敬者集団によって管理することになったのであるが戦いに国敗れたとは言え祖孫一体となって神祭る誠心にゆるきなく郷土人心の平和と繁栄を祈る熱願の溢ふるるところここに群肝の心一つになって近年荒廃した社殿改築の聲が盛り上り箱崎漁業組合と天神社世話人有志協議の上昭和二十九年四月改築を完成するに到った
尚従来は境内中央に東面向きの御社殿であったものをこの度は東北側二間の所に南面向に移転改築したのである
つまり、もともと箱崎宿の御茶屋があった屋敷に、網屋佐助弥助ほか村人が菅公を祀るようになったと言っているわけです。菅公すごいですね。学問の神様だの雷神だのとうとう漁師の守護神までかって出て、全知全能ですね……。
つづいて、愛宕神社と金比羅宮があります。
三隅神社です。
三隅神社
島根県三隅町三隅の旧郷社であり、三隅兼連を祀っています。三隅兼連は、元弘3年(1333年)に後醍醐天皇が伯耆の船上山に潜幸されたとき、行在所に馳せ参じて敵軍を平定し入京しました。正平10年(1355年)に洛外にて戦没するまで勤皇に尽くしました。昭和8年(1933年)に神社創建の許可が下りました。
福岡市東区役所/箱崎校区自治協議会
楠木正成公といっしょに南朝の忠臣として戦った三隅兼連を祀る神社です。
石がまとめて安置されています。
足利勢は、筑前国宗像(現在の福岡県宗像市周辺)を本拠とする宗像氏範らの支援を受けて宗像大社に戦勝を祈願し、筑前国の多々良浜(福岡市東区多々良川付近)に布陣した菊池氏率いる宮方と戦うが、足利軍は約2千騎に過ぎなかった。兵力の差は歴然で、少弐貞経が足利軍のために調達した装備は菊池軍の大宰府攻撃の際に焼失していたため、当初は宮方の菊池軍が優勢であったが、菊池軍に大量の裏切りが出たため戦況は逆転し、菊池軍は総崩れで敗走し、阿蘇惟直は戦死した。
これがなんなのかまったく案内板がないため推測にたよるしかありませんが、箱崎をはじめ各所に、多々良浜の合戦の死者を弔う供養塔がありますので、おそらくはこれもそれだと考えられます。
鯨塚(鯨之標)です。
この碑は鯨之標と刻まれ裏に明治廿一年十月廿日箱崎浦と記されています。
地下鉄箱崎九大前と貝塚駅の中間点当時の海岸沿の松原の中に建てられていました。当時の新聞にこの沖合いにクジラを発見 箱崎浦網屋の漁師総がかりでこの浜に追いつめ体長十三メートルの鯨を捕獲して浦中がうるおったとあります。
この鯨の供養のためこの鯨に感謝をこめて背骨の一部を葬り鯨塚を作りこの碑を建立したものです。その浜辺も埋立が進みやがて鯨塚も人々から忘れ去られ昭和二十五年には鉄道工事のためこの墓標は放置されていました
これを九州大学農学部水産学科の関係者が発見 大学構内に安置し祀られてきました。
このたび箱崎漁業協同組合はこの碑を漁師の氏神網屋天神の境内に移し末永く祀ることにしたものです。
平成6年(1994年)とありますから、この地に移転してきて30年は経っていないようです。もとは鯨の背骨の一部を埋めて、石塔を建てて供養したとされています。
鯨は身も皮もひげもぜんぶカネになるので、埋めるものは背骨くらいしかなかったのかな……とつい邪推してしまいます。
聖観音と案内板にはありますが「焼けずの観音」というのが通称のようです。
箱崎馬出の人々には焼観音と云へばその記憶新ならものありし古くより箱崎網屋本町に霊験あらたかなる 観音として御祈願に占いによく御参詣になった事と思います。
寛永3年(1626)の夏今を去る339年前網屋町に大火があって殆んどを焼失せんとしたが焼観音様の御陰で流石の大火も 不思議にとまり示来焼ずの観音として尊崇されていましたが、いつの間にか焼観音と略称され その後一層の信心を深めて先住丹部道栄師迠続いたのでありますが没後はお祭りする人はなく堂宇も 取りこわされ本尊の焼観音様は糟屋郡新宮町夜臼の小庵に移されていました。 それが不思議にも発起者の夢枕に立たれ是非箱崎に帰りたいとの事で庵主も心よく承知されたので 発起者並に世話人一同協議の末由緒ある有難い焼観音様を再び箱崎にお迎へ申し天神様の境内にお堂を再建し 御祭り申し上げる事になりました。 お観音様もゆかりの地に再びお帰りなりどんなにかお喜びの事かと信じ焼観音様も何かにつけて きっと皆様の願いをかなへて下さる事と思います。
そして横に大師堂と、隅々までひととおり揃い、まさに聖地と呼ぶにふさわしい陣容です。
日本料理 梅嘉 - 箱崎九大前/懐石・会席料理 | 食べログ
じつはこの裏手に「梅嘉」という日本料理店があります。そこの屋敷神にお稲荷さんが祀られているのですが、深く考えずうっかり店の敷地に入ってしまいました。さすがに普通のかたは間違えないとおもいますが、ご注意を。
福岡県神社誌:下巻381頁
[社名(御祭神)]天満神社(菅原神)
[社格]無格社
[住所]福岡市筥崎町字網屋町
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2022.02.13訪問)